2009年12月4日金曜日

ザナルカンドにて:ファイナルファンタジーXと資本市場


(出所:スクウェアエニックス)

今日は就職関連の堅い話は少しお休みで。
まずは今日は音楽から。






ザナルカンドにて(Piano Version)

ファイナルファンタジーXのメインテーマである。
作曲者の植松伸夫、素晴らしい。

ファイナルファンタジーXのモチーフは、資本主義についての貴重な示唆に富んでいると筆者は思う(注1)。ファイナルファンタジーXIIIの発売も近い昨今、今回は、「ファイナルファンタジーXと資本市場」と言うお題で雑談を書いてみる。

まず、ネタバレしてしまうが簡単にファイナルファンタジーXのストーリーを要約する(注2)。

(以下、ネタバレ注意)

この物語の主人公ティーダが日常生活だと思っていた「夢のザナルカンド」は「壮大な夢」であり、現実は全く違ったものであった。そして、現実世間一般に流布していた「エボン寺院」(この世界で流布している一般的な宗教)の教えも、その夢、つまり「既存のシステム」を維持するための虚構に過ぎなかった。

このシステムの中では、召喚士(ヒロインのユウナやその父)が世界を救い平和をもたらすために、「シン」と言う災厄をもたらす存在を自らの命を引き換えにしてまでも倒しに行く。しかし召喚士の死を引き換えにしてまでシンを倒しても一時的な平和が訪れるだけでシンは数年で必ず蘇ってしまう。人々はエボン寺院の教えに従って祈るしかなく、召喚士はそうと分かっていても命がけでシンを倒しに行く以外ない、と言う暗澹たる歴史が延々繰り返される。

人々は「壮大な夢の存在」「シンを倒す→平和が訪れる→またシンが復活する、と言う循環を背後で生み出している存在」や、「エボン寺院の教えが、実は人々に救いをもたらすものではなく、この循環を維持するための虚構である事」等は知らず、それが当たり前だと信じて生活している。しかしどこかしら重苦しい感から逃れられない。召喚士が命と引き換えにシンを倒して平和が訪れても、数年後には元の木阿弥で再度災厄の時が来る事を知っているからである。この世界ではシンの災厄で若死にするリスクが高いため、結婚を早くして子供を沢山作ると言う価値観が一般的である。

主人公達が、この「夢と虚構のシステム」の仕組みを見抜き、その夢を生み出していた中心的存在を倒し、召喚士(ヒロインであるユウナ)の命と引き換えに数年のつかの間の平和を手に入れるが結局また元の木阿弥になると言う既存の陰鬱な循環(スピラ)によるシステムでもない、過去のトラウマに縛られたペシミスティックな虚無や死(物語内ではシーモアと言う悪役がこの立場で描かれている)でもない、新しい第三の道を模索しようとする。その中で愛や友情等の映画のようなエピソードも織り交ぜながら物語は進行して行き、最後には、、、かなり泣ける。これが物語の大雑把なあらすじである。

(ネタバレここまで)


さて、この物語がどうして資本主義への示唆なのか?

長くなりそうなので、今日はここまでで。。。

(以下、注の解説)
注1:やった事のないかたは、ヒマな時にでもぜひ。5060時間かかるので社会人にはつらいかも知れないが、面白い。映像や音楽も、8年前のゲームとは思えないほど良い。ストーリーもよく練られているし、主人公とヒロインの純愛や友情模様も若々しくてよろしい。それを見守るアーロンの役回りがまた渋い。何よりエンディングが泣ける(最後に主人公ティーダに駆け寄るが倒れこんでしまう瞬間のユウナの表情が、話中ずっと少女だったのが大人の「女」になっていたりするのがまたゲームなのに芸が細かい)。思春期のかたや大学生がやっても主人公やヒロインの立場で楽しめるし、大人でもアーロンの立場に感情移入する、世界観や物語の構成について考えてみる等して大人なりに楽しめるゲームである。それにしてもファイナルファンタジーXIIIは何本位売れるのだろうか。

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