2010年2月13日土曜日

資本主義Matrixと秒速5センチメートル

(出所:秒速5センチメートル)


お元気ですか?

今、窓の外には雪がちらついていてしんしんと降り積もり、外はとても静かです。

首都圏で雪なんて、最近珍しいですよね。

平日の、忙しなく学校や仕事に出かけなくてはならない日の雪は中々好きになれないけれど、

お休みの日の雪は好きです。

紅茶の湯気と微かな香りに包まれて、特段用事もなくて。

読みかけの本を何となくめくったり、こうしてお手紙を書いたり。

何だか少しほっとします。

最近忙しそうですが、最近ほっ、と心休まる時間はありますか?




・・・ってこらこら、いつから三文ポエムの部屋になったんだこのブログは(汗)。


とは言え、実際雪がちらついて、出かけなくて良く、人ごみの中でぐちゃっとした溶けかけの雪に湿る靴下等で気持ち悪い思いをしたりしなくて良い、ハーブティ等入れてみたりする休日の首都圏の雪である。中々良いものである。



秒速5センチメートルと「資本主義Matrix


そんな訳で今回は、前回紹介したアニメ映画「秒速5センチメートル」の主人公「タカキ」が陥った「資本主義Matrix」と、そこから得られる教訓についてちょっと書いてみたい。以下ネタバレなのでご留意頂きたい。


(以下、ネタバレ注意)



○第一話:一瞬の至福の時間と、タカキにコンプレックスあるいはトラウマが形成される。


第一話のタカキに全般的に感じられるのは、「子供であるが故の無力感」である。

アカリを何時間も待たせたく無いのに、電車の中で待つ以外にない。

鹿児島になど引っ越したく無いのに、親の仕事の都合でどうしようもない。

アカリは目の前に居て、唇の感触や肌のぬくもりも感じられ、ずっと彼女と一緒に居て彼女を守りたいのに、その至福の時間はほんの一瞬で、守る事が出来ない。

第一話の最後の所で、「アカリを守るだけの力が欲しかった」と言った類いのモノローグがタカキから語られる点が、印象的である(注1)。



○第二話:アカリの幻影を思い浮かべながら、心ここにあらずで頑張る


第二話の種子島でのタカキは、どこか心ここにあらずである。


カナエが自分の事を好きである事も薄々気づいて居て、優しくはする。


しかし幾らカナエが近づこうとしても、タカキは心ここにあらずで、その距離は埋まらない(注2)。カナエが告白しようとして耐えられなくなっていたその時に発射されたロケットで、空がまっ二つに分断されているシーン等は、この二人の距離のメタファーだろう(注3)。


タカキが打つ携帯電話のメールは宛先の無いもので、文面も「異星の草原をいつもの少女と歩く。いつものように顔は見せない。空気にはどこか懐し」と、アカリの事を漠然と思う内容である。


ここでポイントなのは、携帯のメール文面が「アカリ」と固有名詞でなく、「いつもの少女」になっていて、映像内のタカキの想像・幻想のシーンではアカリと思われる少女の顔の表情等が描かれていない点である。メールをアカリ宛でなく宛先無しで漠然と打っている事から、アカリとは連絡が既に途絶えている事も分かる。第一話の「実際に触れられる距離」とは対照的で、実際の二人の距離も、心的な二人の距離も遠くなっている事が自然に鑑賞者に感じられるようになっている(上手い!)。


そしてタカキは悟ったようなふりをしながらも、「余裕無いんだ、俺」とカナエに呟いている。カナエが高校に入る際に猛勉強していたシーン等から、恐らくタカキとカナエの通う高校は地元の進学校で、タカキについては「アカリ(あるいは漠然とした「いつもの少女」)を守れるだけの力」を得るために、東京の大学(鹿児島や九州を出る事が合理的な位なので、恐らくある程度以上偏差値の高い大学)を目指していた、と言った状況だろう。



○第三話:「Matrix資本主義」における典型的な下方循環。「誰かを守れるだけの力」は得たが、手段が目的化し、何のためか分からなくなり、ある日自分が囚われていたものが何だったかを知る



第三話は、タカキが恐らく都内の大学を卒業し、SEあるいはプログラマとして仕事をしていた段階の描写である。彼はがむしゃらに仕事をする。


「この数年間、とにかく前に進みたくて、とどかないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的ともいえるようなその想いが、どこから湧いてくるのかも分からずに僕はただ働き続け、気付けば、日々、弾力を失っていく心がひたすら辛かった。」


とある。つまり、この時点ではもう、がむしゃらに仕事をしている理由が、元々は「アカリを守れるだけの力が欲しかった」からだと言う事も、すっかり忘れてしまっている。


こう言うのが、「Matrix資本主義の循環」の下降局面で非常に典型的な現象である。タカキは会社を辞めても独立プログラマとして生計を立てている位であるから、有能で稼げるプログラマにはなったのだろう。しかし幸せからは強烈に遠ざかっている。


そしてそう言った状況に囚われてしまっている理由が、自身も忘れてしまっていたような、子供時代に形成されたトラウマやコンプレックスだったりする。マネーと言う概念は、こう言う心の隙間、かさぶた位になった心の古傷に巧みに付け込んで来るものである。いやほんとに。マネーや権力に取り憑かれてしまったり、ワーカホリックで家庭やパートナーを顧みない男女も、遡るとこう言うプリミティブな心の隙間に原因がある事が結構多いのである(注4)。


「そしてある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実だった想いが綺麗に失われていることに僕は気付き、もう限界だと知ったとき、会社を辞めた。」


・・・と続き、更には、その時に3年間付き合っていた彼女とは、「あなたのことが今でも好きです。でも、私たちはきっと1000回もメールをやりとりして、たぶん心は1センチくらいしか近づけませんでした。」と彼女から最後通告を受けて別れる事になる。タカキのメタファーでもあるロケットは、太陽系外に抜けていき(そして探査ロケットとしての役割を恐らく終えた)とコンビニで立ち読みした科学雑誌に載っていた(こう言うさりげない所にもメタファーが込められているのが上手い)。これで資本主義Matrix、頂点→下り坂→終局と、一循環終了である。この映画のお話自体は、特に主人公のタカキの観点では、底から頂点に昇って行く物語と言うよりは、一番幸せな子供の頃の原風景を頂点として、坂を下って行く物語と言える。


そしてタカキもアカリも同じ夢(これが第一話の内容)を見て、偶然にして子供時代に通りかかったまさにその踏切と思しき踏切で、既に結婚したアカリと思しき女性とすれ違う。


電車が過ぎ去った時、彼女の姿はそこには無かった。しかし、タカキは一瞬驚いた後、微かに微笑んで、確かな足取りで歩いて行く。


この時点で、遂にタカキは、「自分は何に囚われて居たのか」を悟ったのである。それが分かった事で、今まで「どこから湧いて来るかも分からなかった、脅迫的ともいえるようなその想い」の所在を突き止める事が出来、やっと不幸なサイクルから脱出して、「遠くの高き」所に居る星(アカリ)の幻影を求め続ける事を諦めと共に止め、地に足の付いた一歩を踏み出す事が出来るようになったのである。それが、最後の複雑な微笑の含意であろう(勿論捉え方は色々可能であり、色々な解釈が可能なのがこの手の映画の良い所であるが)。資本主義Matrixで言えば、頂点から坂を下って行って、遂に底が見えて「再生」の兆しが見えた、と言う「微かな希望」の雰囲気で物語を終える、と言うパターンである(注5)。


60分少々の映画に、よくここまで色々濃密に色々なテーマを凝縮したものである。


そして、資本主義Matrixとの関わりで言えば、マネーに翻弄されずにきちんと人としての幸せと両立させる事を考える場合、過去のプリミティブな古傷や忘れかけたトラウマ等も含めて、きちんとその所在を確認する事、自分を突き動かす衝動がどこから来ているのかを理解する事が重要である事を、この映画は確認させてくれる(注4)。きちんと過去の古傷も含めた自分の内面、思考の特性を把握した上で受け入れる事が出来れば、そう言った古傷が不幸を呼ぶ事はだいぶ減るようにも思う。


注4にも書いてあるが、こう言った作業を適切に行う場合、一人でやるのも良いが、必要に応じて心理カウンセラーやコーチングのコーチ等の助けも借りると良いと思う。海外のヘッジファンド等だと、トレーダー専門のコーチ/カウンセラーを活用している場合もある。


そんな訳で、「秒速5センチメートル」、普段アニメを観ないかたにも、お勧めである。



(以下、注釈の解説)


(注1)話はタカキからはそれるが、一方でアカリについては、もうタカキと会う事は無いかもしれないな、と言う事を感じていて、男女の距離感がこの時点から既に微妙にすれ違う感じに表現していた点に、制作者の巧みさを感じる。「距離感についての映画」と言う主題で作っただけの事はある。


「タカキ君はきっと、この先も大丈夫だと思う、絶対。」と別れ際に言うアカリの台詞にその辺が表現されている。行間を埋めると、「タカキ君はきっと、”私と居なくても”、この先も大丈夫だと思う、絶対。」と言う事である。何と言うか、芸が細かい。


また、前回のブログで、第一話の中で「携帯電話の無い昔に、地方都市にスタバがある」と言った矛盾を指摘した。この他にも、第一話に出て来る車の車種等が、スーパーファミコンに少年ジャンプの頃の昔には有り得ない車種だったりする等の点もある。この点については、映画を作る際にロケをしたままの現在の風景を単純に過去の映像にしてしまったと言う可能性もあるにはある。


しかし、この点に関しては、第一話全体が、第三話の時にタカキとアカリが見た「夢」だと解釈すれば解決する。夢の中で過去を観る場合、例えばスーパーファミコン、ジャンプ、親に聞かれたくないような「子供なりに込み入った話」を公衆電話でやる(筆者も子供の頃、これは結構やった気がする。ガールフレンドとの長電話とか)、と言った「過去を象徴する部分」については子供の頃の原風景として強調して表示される一方で、景色の細部等は現在が混ざってしまったりするものである。「第一話は、全体として、第三話の現在の大人のタカキとアカリが、アカリが結婚する間際に見た夢ですよ」と言うメタファーで敢えて昔の地方都市にスタバを描写していたりするんだとすれば、芸が細かいしもの凄い上手い。



(注2)ちなみに、カナエの心情のメタファーになっているのが、第二話のカナエの姉の車やコンビニでかかるリンドバーグの曲である。リンドバーグとカナエの雰囲気も一致するし、「もう少し もう少しだけ このままでここにいて 感じていたい 大丈夫 大丈夫だよ 自分に言いきかせながら 涙 あふれて とまらないのは べつに 君の せいじゃないよ」と、歌詞もぴったり来ている。第三話の山崎まさよしの歌/歌詞でもってたった10分内外の中に多くを込める手法も含めて、何と言うか上手い。



(注3)また、ロケットについてはタカキ自身のメタファーでもある。遠野貴樹=遠くの高き、篠原明里=アカリ=明かり=星のメタファー、と言う主人公とヒロインの名前にもその点示唆が込められている。。ロケットは、余裕なく「アカリを守れるだけの力」を付けるべくロケット噴射のごとくがむしゃらにやる事をやり都内の大学を受けて、東京に戻り星=アカリにたどり着く事を求めるタカキのメタファーである。


更に言えば、第二話のカナエ=花苗は、ずっと遠くの高きを見つめて星アカリを求め続けているタカキと対照を為しており、花の苗と言う名前同様、自然のある種が島(「種」が島に根付く「花の苗」、と言った関係になっている)で一つ所に留まる事、あるいは近くに居る異性を好きになる事で幸せを見いだせる人物の象徴として描かれている。


名前にメタファーを込めるのは小説や映画の基本的な手法であり、こうやって解説していると、計算されて作られた映画だなーと改めて尊敬する。消費者として映画を消費してこうやって解説するのは簡単だが、スクラッチからこう言う世界を作り上げて、かつメタファーをミエミエにし過ぎずしかし鑑賞者が気づきはするようにさりげなく自然な形で表現するのは、大変な事である。



(注4)こう言うのは、自分一人で発見しようと思うと中々難しい所もある。起業家、外資系金融やヘッジファンド等で大量のマネーに晒されるプロフェッショナル、政治家等の権力と近い所にある職務に就いている場合等は、専属の心理カウンセラーなりコーチングのコーチなりの心理学/精神分析のプロフェッショナルを付ける事をお勧めする。


マネーと対峙するとは、すなわち自己の内面の奥深くを覗く事に等しい。自己の内面に矛盾や葛藤、シャドーがあれば、マネーと言う虫眼鏡・心の拡大鏡を通じて、それらを実際に目に見える出来事やトラブルとして経験する事になる。相場に参加する際に、心理学等にある程度精通しておく必要があるのは、行動ファイナンス等に詳しくなるためと言う観点以外に、こう言った面もある。


(注5)神話論は知っていると色々使えるのでお勧めである。最低限映画の見方は少し変わる。


神話と言うとヒーローものや冒険ものにしか適用出来ないのではないかと思うかもしれないが、当ブログの通り、恋愛モノでも結構な確度で利用可能である。


ハリウッドの良くあるハッピーエンドの恋愛ものは、神話論の底〜頂上に上がるまでの物語が多い。


一方でフランス映画や日本の映画、単館上映もの等のうち比較的観るに耐えると言うか多くの人の心に普遍的にリーチし易い映画だと、例えば都会の出世競争に敗れて疲れ切って田舎に籠って、とかそう言う出だしから始まる恋愛ものの類いに代表されるように、比較的頂上から坂を下って行く感じのかなり救いようの無い話をした挙げ句、終わりの方で「再生」としての希望が見えて終わる、と言う話が比較的多いように思う。


また、神話論を人生の展開に当てはめれば、今回のタカキの状況の解説でも伺われるように、色々示唆がある。現状の自分が神話論のどの辺に居るのかを考える事で、人生をよりよくするためや、株の投資であれば経営者の判断等にも活用可能である。右の参考書籍欄の神話論関連の書籍も参照。

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