2010年5月11日火曜日

宮本武蔵相手にどんなゲームプランを言えばいいのか、比較優位、トレーダー講座

しかしゲームプランについて語る段になって彼は困った。

マーケットで圧倒的に成功して来た彼女に説明出来るようなご高尚なゲームプランなど彼は持ち合わせて居なかった。彼女のブラックボックスモデルの方が格段に優れているに決まっている。だから彼女は20代で米系大手投資銀行の社内ヘッジファンドのグローバルヘッドになっていて、彼は極東の東京で一兵卒なのだ。

マーケットの仕事をやっていると、話している相手の力と自分の力の強弱関係はよく分かる。仮に名刺を貰って居なくても、運用力テストの辺りから、実力の差が明確なのは、彼は十分自覚していた。

彼女と違って、彼は「外部サプライヤーにも任せない、実際に巨大なリターンをもたらしている完全シークレットのトレーディング戦略あるいはリスクモニタリングシステム」と言ったものなど持ち合わせては居なかった。投資やトレーディングに関して一通りの知識はある。個別企業の分析を中心としたファンダメンタル分析も出来る。マクロ経済も分かる。チャートだって見ている。確率統計についての素養も一通りあるし、教科書レベルであれば株以外の、為替や債券、デリバティブやクレジット市場の議論も出来る。顧客説明等の際にはそう言った知識を披露して信用を得る事も出来る。しかしどれも教科書の範疇から大きく出るような代物ではない。「本当に強烈に儲かる上に市場参加者で知る人が居ないから、顧客に説明するのもはばかられる」ようなものではない。

しかも彼女の場合、ロジックやプログラミング、マネジメントとしての能力だけでなく、極めて右脳的、直観的な素養の高さも伺われ、かつ直観・理想倒れでもなく実務的でもあった。これらの面でも彼が太刀打ち出来るとは到底思えなかった。彼女の出して来た運用に対する条件例えば銘柄数や流動性の条件、またインフラや会社の建て付けに関する話(例えばコアのシステムやリスクモニタリング等のキモは彼女が独占的に集約し、それ以外を権限委譲すると言うバランス)は極めて実務的で如才なかった。また注意点の所で「マーケットの夢を見た場合も報告しろ」と言う事は、本人も夢をマーケットの運用やあるいは運用システムの開発に活用していると言う事を示唆する。一緒に仕事したらもの凄く仕事がし易そうで、実務的な処理も円滑そうで、かつ感覚的でクリエイティブな仕事が出来そうな事は、容易に伺えた。彼にここまでやれる自信は無かった。

彼女の感性、あるいは存在自体が、稼ぐ事に対する自動追尾ミサイルのようになっている事を彼は感じた。彼女がリターンを稼ぐ時、恐らく力んだり頑張ったりする必要はない。彼女には力みが全く感じられない。無意識にボタンを押せば、パトリオットが自動追尾でミサイルを撃ち落とすように、マネースポットに行き当たる。犬も歩けば棒に当たるように、彼女が歩けばリターンに当たる。この業界には、時々そう言う、天賦の才を感じさせる人が居る。明らかに彼女はその一人のように感じられた。言ってみれば、彼女はヘッジファンドの世界の宮本武蔵みたいなものだ。

宮本武蔵に無闇に斬り掛かる侍は居ないし、無闇に斬り掛かってあっけなく切られてしまうのは基本線シロウトだけである。彼も一応、自分も修行をしていて、「飲み屋かどこかで、"あんだ〜こいつ〜スカしやがって〜。てめえら、やっちまえ〜!"とか宮本武蔵に斬り掛かって切り捨てられるチンピラ」辺りよりはマシであると言う自負はある。しかしまあ、「宮本武蔵がひとかどの人物であると認識していて、礼節を持って話の序盤で決闘するけど負けちゃってエンディングの頃には視聴者からも覚えられて居ない、そんなに主要キャラではない”うんたら流”(剣法の流派)の侍そのC」位の役回りであると言う自覚もあった。彼女に対して、自信満々にどうだ凄いだろう等とゲームプランを語る事が無謀である事位は分かる。どうしたものだろうか。

「どひたの?」

彼の心配をよそにして、彼女はクランベリージュースをストローで飲みながら、どうにものどかな具合に「し」が「ひ」に変化しながら彼の顔を覗き込んだ。彼は仕事の話に付いて行くのが一杯一杯ですっかり穏やかな春の陽気の海べりを楽しむどころではなくなっている一方で、彼女の気分はあくまで夏の萌しの海べりであり、それを楽しむ休暇中のようだった。彼女の間の抜けた「ひ」の具合やストローでジュースを吸っている仕草はとても可愛く、デートオプションを確保出来た事はビッグポジティブサプライズだったが、そろそろ実力の差が明確になって来てやっぱり採用無し、と言う事になるんじゃないか。彼は段々不安になって来ると共に、”デートオプションの付与”の提案がどれだけ無茶な話だったか段々冷静に理解出来るようになって来た。どう考えても釣り合わない気がして来た。

「いや、プラチナムスタンレーの稼ぎ頭だったプロップトレーディング部門でグローバルヘッドをやっていたキミに向かって披露出来るような、洗練されたゲームプランだのStrategyだのEdgeだのを持ち合わせてなくて、何を話せば良いのか、頭が真っ白だ。正直、キミにとって何か付加価値のあるようなアイデアを僕から提供出来るとは、全然思えない。キミは資本主義の世界の中心で稼ぎ頭をしていて、僕は資本主義の片田舎で一兵卒をしていたに過ぎない。」

彼は正直に告白すると、彼女は人差し指を唇に当てて考え込み、う〜んと唸った。

「まあまあ落ち着いて。ちょっとプライドを傷つけてしまう物言いになってしまうかも知れないけど、ワタシはキミにそんなに期待してはいないのよ。キミから聖杯のような投資戦略が出て来る事はそんなに期待してない。」

彼は神妙な面持ちになった。ほっとするような、がっかりするような、何とも言えない気分だ。

「それにワタシだって神様じゃない。こうして日本語もネイティブで話せるし日本には比較的良く来るけど、日本株をそんなに細かく見ている訳じゃない。楽天の通販で買い物位はするから楽天の銘柄コードはたまたま覚えてたけど、キミみたいに取材している訳でもない。ニューヨークの生活も長いし、日本の政治や流行なんかもそんなに詳しくない。アメリカ人のトレーダーなんか、ひどいもんよ?円安傾向だって言ったら条件反射でトヨタやソニー買って、円高って言ったら内需だって言って日本のメガバンクなんかを買おうとする。でもトヨタやソニーの今期の業績予想すら知らないし、メガバンク3行の名前を全部言えなかったりする。それでもびゅんびゅん売買している。そんなもんなのよ。」

案外そんなもんだと言う面もあるのは確かに聞いた事がある。

「よし、ゲームプランとか、エッジとか言う時は、絶対優位じゃなくて、比較優位で考えようか。」

彼女は思いついたように言った。

「例えばワタシの能力が、クオンツ80、トレード能力70、株式調査能力60、日本への理解60、美貌70、若さ70。キミの能力が、クオンツ40、トレード能力40、株式調査能力55、日本への理解55、美貌30、若さ50だったとする。ワタシの美貌がやたら高くてキミの美貌が低いのはまあ、数字のアヤだから勘弁するように。キミには”デートオプション”と言うスペシャルなベネフィットを付与したのだし、そう見るに耐えないとは思ってはいないと言う事で納得したまえキミ。で、あらまあ、キミはワタシより能力が上のものがずぇんずぇんないと。ワタシはそうは思わないけど、キミが今悩んでるのはそう言う事だよね?」

そうだ。彼は頷いた。

「で、経済学だとこう言う時に、劣位に居るキミはどうすんだっけ?」

比較優位、つまり絶対値では劣っているものの、彼の能力値の中では一番秀でていて、かつ彼女との比較でも能力が肉薄している「株式調査能力」「日本への理解」に特化して、彼女と取引する事だ。彼女も「株式調査能力」「日本への理解」はそれなりに高いが、それより更に高い能力を持つ「クオンツ」「トレード能力」「美貌」「若さ」を活用する方に特化した方が彼女もより効率が良いので、絶対値では劣っていても僕に「株式調査能力」「日本への理解」の部分はアウトソースして任せるインセンティブがある。

「その通り。絶対比較で自分と他人を比較すれば、そりゃ上には上が居るよね。そこで”自分が一番秀でて居る訳じゃないからEdgeじゃないし意味無い”みたいに考えてしまうと、発想が前向きになれないのが良くないと思うのよ。実際、ワタシだって数学やクオンツの能力自体は一番凄い訳じゃないし、本当に優秀なクオンツは投資銀行何て行かないでノーベル賞を取る訳。もっと優秀な物理学者やプログラマは沢山居るのよねぇ。コンピュータは二進法だけど、実際には物事はゼロかイチかではない。別に一番じゃなくても価値はあるし、Edgeと言っていい。自分が相対的に好きな事、得意な事を伸ばせば活路は拓ける。比較するべきは他人と自分でなくて、自分自身なのよぉ。自分の中で何ならやれそうか、何が好きで続けられるかと言う所にある。相場にもそれは言えるとワタシは思うのね。」

・・・なんだか、彼女の方が年上で、経済学の先生に諭される学生みたいな気分になって来た。立場的にはまあ、そうなんだが。

「だから、キミ的に”こういうアプローチは好きだしフィット感がある”"もっと凄い人も居るかもしれないけど、オレはこう言うスキルや経験があるからこの戦略ならいけそう"とか、そう言うので全然構わないのよ。そうやって話し合って、勝てる運用に一緒にしていけばいいと思うのね。キミもまあ、全くのシロウトじゃなくて、まーまーのプロなんだし。例えばキミのスキルをワタシのクオンツ能力やトレード能力で強化出来るかもひれないひ。」

小振りで瑞々しい唇に付けたストローで、クランベリージュースをもう一口彼女は吸い、最後の方はやっぱりどうにも間抜けな具合に「し」が「ひ」に変化しながら彼女は当たり前のように言った。

そうか、それでいいのか。それなら大丈夫かも知れない。彼女の思考は地に足が付いて前向きで、何より人の心を癒す効果がある。「癒し系投資銀行のトップ」「癒し系トレーダー」なんて、本当にレアな才能だと彼は思った。そんな人間に、この業界に居て今まで出会った事がない。

良い人は良い人なだけで稼げないし、稼ぐ人間はストレスのせいで往々にして人格なり私生活なりが破綻している。どちらかだった。言ってみれば、「良い人」「稼ぐ人」はトレードオフの関係にある。あちらが立てばこちらが立たず、と言う事だ。実際、彼自身もこの両者の間でジレンマを感じ続けていた。

稼ごうと思うと、良い人では居られない。もっと上を目指さないといけない。厳しい競争に勝たないといけない。そうしてキリキリしている中で、彼の私生活も知らず知らずのうちに段々浸食されて行った。

結婚と離婚もその流れの中にあった。美人だが周囲に対する見栄や浪費の傾向が強い女性と結婚した。しかし結婚して直ぐに、彼女にとって男とは、金づる、あるいは「稼ぐ優秀な男を連れている」と言う、セレブである自分を彩るアクセサリー程度のものでしかない事に彼は気づいた。実際の所は、彼の金づるとしての能力も、優秀さの度合いも、彼女の極めて高い、しかもある線を達成しても直ぐに無限にステップアップされて行く期待(ないしは欲望)を満たすものではなかった。そして結局は結婚生活も上手く行かなくなった。
しかし彼自身、美人を横に連れていたいと言う見栄もあったし、派手な美人を連れる事をモチベーションにして稼げると思って居た面もあった。言ってみれば、彼自身も離婚した女性と似た者同士、自業自得だったとも言える。スーパーの特売チケット収集するような、ジミで冴えない女と付き合うなんてごめんだと思って居た。離婚した相手だけを責める事は出来なかった。

やはり、稼ぐだけで私生活や人格が破綻する人生が幸せだとはとても思えない。彼は前妻と離婚し、前の会社もクビになった時、離婚費用等で金銭的には「スタートに戻る」の状態になってしまったものの、内心ほっとしたのを良く覚えている。やっとこのジレンマから解放される、と。

結局彼の人生は、「人としての幸せ」と「競争に勝って稼いで金銭的に成功する事」の間のトレードオフのジレンマを行ったり来たりしているうちにこの10年余りが過ぎて行ったと言う事になる。彼女と話をしながら、彼はその事を自覚した。

一方で、彼女はそんな「良い人」「稼ぐ人」のトレードオフなど全く関係のない世界で生きているようにも見えた。つまり「普通に良い人で、マイペースで、かつもの凄い稼げる」である。彼女はそう言う価値観にこの10年間集中して来た事で、現在の成功を収めているのだと言う事を彼は感じ取った。また、良い人か稼ぐ人かのトレードオフで振り子が右へ左へ触れながら迷っていた彼が一兵卒で、一つの価値観に完全に集中していた彼女がヘッジファンド界の宮本武蔵である事も、当然のようにも彼には思えた。分散なんてクソくらえであり、何がしかの人間になるにはやはり集中なのだ。イチローも、ジョージソロスも、ウォーレンバフェットも集中して来たように。

何だか彼女と一緒に居るだけで、立派な投資家になれてしまいそうな気すら彼はだんだんして来た。教育指導されながら、100本も運用させて貰った上に給料貰って良いのだろうか。

「別に他人と比較して一番じゃなくても価値はあり、Edgeと言っていい。自分が相対的に好きな事、得意な事を伸ばせば活路は拓ける。比較するべきは他人と自分でなくて、自分自身。相場にもそれは言える。」

彼にとって、彼女のこの発言は目にウロコであった。彼はマーケットの中で優位に立つ事、他人に勝つ事で頭が一杯であった事に気づいた。真っ白だった彼の頭も冷静になり、話すべきゲームプランが少しづつ浮かんで来た。

彼女は自身が優秀であるだけでなく、他人の能力を引き出す力まで持っているように思われた。お金を払ってでも彼女のもとで「トレーダー講座」を引き続き受けたいと、彼は思うようになった。

「おお、キミの心の中で色々と化学反応が起き始めて来ているみたいだねぇ。それはまたごっつう良い事ですな。少し話を聞かせて欲しいなぁ、ダメ?」

「〜ねぇ」の「縁側おばあちゃん調」、「〜ですな」の「新橋おやじ調」、最後に「〜ダメ?」の「可愛いらしい年齢相応の彼女調」を立て続けに繰り出されると彼は気分が良くなり、彼女のお陰で「夏の萌しの海べりの休暇」のリラックスした気持ちに戻る事が出来た。
分かった、ちょっと説明を試みてみる。彼の心は弾んだ。アイスティーの氷が、かららん、と爽やかな音を立てて、扉の外から飛び込んで来る陽光を反射してきらりと光った。

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