2010年10月11日月曜日

織田信長が本能寺の変を避けるにはどうすれば良かったか?

先日書いた雑談で、題名の事について少し書いたので、思う所を書いてみたいと思う。
端的には、大まかに3点あろう。


1:大義も大切だが、もっと「やってて気分的に楽しい」を重視するべきだった。

山岡荘八の小説は小説であり、史実と違う所も多い事は一応理解した上で書いているが、それでもやはり、信長の人生で一番「ああ、日々が楽しかったんだろうなあ」と言うのは、若い頃のうつけ者〜桶狭間の戦いでの勝利までの頃が一番そうであり、強いて言うなら上洛まで位である。

天下布武の大義が先(1567年から、「天下布武」の朱印を使用するようになった)になるようになってからの信長の人生は、小説の脚色は除いて史実だけみても、どうにもしんどそうである。元々尾張の野山を駆けずり回っていた田舎者にも関わらず公家やら将軍様やら向けの対策が必要になり、当時武力もあり信長に対抗する形で政治にも関与し始めて居たのを封じるため(言ってみれば政教分離のため)とは言え延暦寺や長島一向一揆を焼き討ちにして非戦闘員の女子供まで殺したりする辺りから、人生の有り様がやや不自然になって来ているように思う。

戦国の世なのでそこまでしないと信長包囲網(浅井、朝倉、毛利、本願寺、武田等等)にやられてしまっていたのかも知れない。そう言う意味では、仕方無い面もあるのかも知れない。

しかし、「それをやってて楽しいか」と言う事を重視していれば、天下統一も出来なかったかも知れないが本能寺の変も無かったのではなかろうかと思われる。大義のためならプロセスは何をしても良い、と言うものではないのである。


2:才気も大切だが、責のある人間に対して逃げ道が全く無くなるまで理詰めで追いつめてはいけない。多少の逃げ道も作っておいてやるのも人間力だし、人前で恥をかかせないように配慮するのも思いやりである。

信長自身がもの凄く優秀で、自身で政治、経済対策、武術、戦争上の戦略策定、果ては鉄砲や長槍とそれらを用いた新しい戦術等の研究開発まで何でもやれる、言ってみれば「完全無欠のプレーヤー」なのは素晴らしい事である。

一方で、それが仇になっている面もあるように思われる。本人が優秀であり過ぎるが故に、凡人の部下がやるミスに対して容赦なく追い詰め過ぎの部分は否めないように思われるのである。理詰めで相手の逃げ道が全く無くなるまで責任を追及し過ぎたり、人前で怒鳴る・叱るなど恥をかかせると、相手を大いに傷つける事にもなるし恨みを買う事にもなる。

親類のお市の方への感情等で浅井氏に手ぬるい事をして裏切られた、等のエピソードがトラウマになってその後の対応が容赦なくなったのかも知れない。また、下克上が当たり前の戦国時代なので、余り甘くては規律が乱れてしまうし返り討ちの遭うリスクが少なからずあるので仕方無い面もあったのかも知れない。自身が優秀過ぎたのでまごまごする部下がイライラすると言う面もあったのかも知れない。とは言え、信長の対人面でのある種の厳しさ、容赦なさが問題となり、仇となった面は否めないだろう。

例えば、上述した叡山焼き討ちや長島一向一揆等についても、寺を焼き討ちにする事自体は当時の政情を考えるとやむを得ない面もあったにせよ、非戦闘員の女子供位は可能な範囲でも良いので助けるとか、「多少の逃げ道」は用意しておく方が、世論や部下の反応等を考えても得策であったように思う。特定の大将が女装して逃げて返り討ちに遭うと言ったリスクがある場合は別だが、見せしめにすれば所与の政教分離が達成出来えたのではないかと言う所で言えば、当時では寺を焼き討ちにしただけで十分なインパクトはあったはずで、非戦闘員まで皆殺しにまでする必要性があったのかと言うと疑問を感じる。


3:「謎掛けやほのめかし」で相手を試すような事をするものではない。オープンマインドに、明瞭に人と接するべきである。

小説は多分に脚色であり、信長と配下の実際の会話の模様を聞いていた訳では無いので史実としての信長がどうだったかと言うのは完全には把握出来ない。

しかし、あくまで小説内の描写や一般に伝えられている信長の様子の範疇で行くと、信長は部下に対して「謎掛けやほのめかしで相手を試す」と言う事をやり過ぎである。これは相手を蔑み、かつ相手の自尊心を奪う行為であり、フェアではない。恨みも買い易い行為である。

確かに、「謎掛けやほのめかしを多用する」と言うのは、相手を支配する手段としては優れている。

余り多くを語らず、明瞭な説明をせず、勿体ぶって謎掛けやほのめかしを多用する。時には複数の部下に同様な形で勿体ぶった曖昧模糊とした指示内容で同じ仕事を別々に指示して、部下同士自体は連絡を取らせないようにして疑心暗鬼に陥れた上で部下同士を競わせたりする。

それでもって、「謎掛けやほのめかし」の1に対して10の答えを持って来たら褒めてつかわして褒美や高い年収をやり、1に対して1や2位しか返って来ない人間を叱責する。

そして、この賞罰や叱責の仕方などがやけに一見ロジカルで筋が通っているように見えるので、叱責される側は「何か違うんじゃないか」と感じはするものの反論が出来ない。上記の、「責のある人間に対しても逃げ道が全く無くなるまで理詰めで追いつめてはいけない。多少の逃げ道も作っておいてやるのも人間力だし、人前で恥をかかせないように配慮するのも思いやりである。」と言う指摘の正に逆を行くような、「逃げ道が無くなるまで理詰めで追い詰め」「しかも恥をかかせようとする」と言った事をやるのである。

カネで釣る事もある。「俺様の方が金持ち/高給取りじゃないか、地位が上じゃないか、成功者じゃないか」と言ったロジックである。全く実態のないマネーをこう言う用途に使われると屈してしまう人も多い。実際にはマネーとは中央銀行の生み出した概念上の数字でしかなく、これが多いから偉い(成功者)とか少ないから悪い(落伍者)と言う事もないのだが、気をつけていないと「相手の方が成功者なんだから相手が正しくて、平凡な自分の方が間違っているんじゃないか」と言った気分にさせられやすいと言う事である。

読者の会社のお偉いや上司などで、こう言ったはた迷惑な人物が時々いるのではないだろうか。あるいは、非常に迷惑な話だが、男女関係でもこう言う「駆け引き」で有利に立とうとする異性(筆者からすると女性、女性読者からすると男性)も居るように思う。

これは非常に有効な「相手をアンフェアに支配する手段」では一応ある。

何がアンフェアなのかと言うと、つまり、元来説明責任は仕事を指示するトップの方にあるからである。

仕事の指示は明瞭に誤解の無いように、指示の内容とその背景や狙いを説明して然るべきであり、部下が理解出来ない言語で説明している時点でトップの方がコミュニケーション能力が欠けている訳で、トップが悪い。これが元来の責任の所在である。

ところがどっこい、「トップによる謎掛けやほのめかしの多用」をすると、この説明責任が部下の方に知らないうちに転嫁される。つまり、説明が意味不明で不明瞭な上司が悪いのではなく、見識のある上司様の有り難きお言葉を理解出来ない下々が悪い、と言う具合に転嫁されるのである。これは結果として、部下に対して、常にトップ、上司の一挙手一投足、ちょっとした発言にまで気遣いをさせる事を暗黙のうちに強要する事になる。相手の尊厳、相手の自由な領域を浸食していると言っても良い。

その結果、部下/下々の側は常にトップ/上司に「気の回らない奴だ、頭の回転の鈍い頭の悪い奴だ」と言って叱責される事を恐れて上のご機嫌を伺わなくてはいけなくなり、部下の自由と尊厳は奪われる。

しかも迷惑な事に、これの前提は、「トップが腹の中で考えて居る事は常に高邁で正しく、下々は原則としてトップ未満の見識なので、トップの腹の中を以心伝心で理解出来るように精進しなくてはならない」と言う、はなはだアンフェアで迷惑なものである。下々に対して、常に「自分が悪いのだ」と言う卑屈な態度を強いる事になるからである。

詰まる所、「謎掛けやほのめかしの多用」は、一種の恐怖支配のツールなのである。

小説内での信長はこれを多用していて気色悪い面が否めない。筆者が過去働いて居た会社でも、こう言う事を平気でやっていたお偉いが居た。

こう言う支配の仕方は、ある程度までは上手く行くかも知れないが、部下にストレスや不満を蓄積させる事になる。部下からしたら当たり前である。元来上役の責任である説明責任を転嫁され、しかも自分は常に上役より見識が無いのだとと言う極めて卑下的な前提を甘受する事を強いられるのであるから、ストレスや不満が溜まるのである。人間、自尊心、self esteemを浸食されるのは嫌なものだ。

そして、その不満が爆発すると、信長の場合は本能寺の変のような決定的な謀反になるのである。

筆者が以前働いて居た会社でも、こう言う「支配/被支配」をやった結果、退職者が続出したり、筆者が去って行った後業績も左前になって行ったと言う例は少なからずある。別に筆者が屋台骨を支えていた大人物だと言いたいのではない。筆者は無名である。ただ、生真面目な無名の現場の人間が出て行かないといけない、あるいは堪え難いので出て行きたくなるような「支配/被支配マネジメント」をやっているようなチームは長続きしない事が多いと言う事である。

そんな訳で、下克上が当たり前の戦国の世でオープンマインドは難しかったのかも知れないが、信長ももうちょっとオープンマインドで、部下の尊厳も大切にした形で部下に接するべきであったのではないかと思う。ほのめかしや謎掛けを多用すると言うのは、よろしい支配の手段とは言えない。

蛇足までに追加すると、信長はまあ下克上の乱世の戦国の人だったので仕方ないかも知れないが、筆者が過去属していた上記の現代の会社のお偉い等については尚更である。今は戦国の世でも何でもない。上記のような、「種明かしをばらしてしまうと大した事はない、キショい支配/被支配の構造」を作る事で、元々卑小な自分自身を大きく見せて、お山の大将面して部下をコントロールしたいのは分かるが、この手の謀略は筆者のような無名の兵卒からも「謀略のロジックも、もろバレ」であるし、「本当は自分に自信がないからそうやって恐怖で支配したいのも、もろバレ」である。本人にそう言ってあげた方が良いのかも知れない。この手の迷惑な人達と関わると良い事はないので、それを彼ら/彼女らに直接伝える事は無いけれども。

ちなみに、筆者の昨今のポリシーとしては、上記3点について自らもこれを大切にするようにすると共に、「上記のようなアンフェアな駆け引きの片鱗が感じられたら、仕事においてはどんなに地位が高い人間でも、私生活においてはどんなに美人とかセクシーな異性でも、即刻関わるのを止める」である。また、資本主義Matrixの所でも関連する事を書いたが、「コンプレックスをバネに戦っているような人間は、得てしてコンプレックスを埋めるために他人をこの手の被支配に置こうとするので、この手の片鱗を感じた場合も直ぐ避ける」である。言ってみれば、ちゃんとself esteemを確立していて他人を被支配に置く必要もなく、オープンマインドで、相手の尊厳、相手の領域をキチンと大切に出来るフェアな人と接する事を大切にしている。

これで人をえり好みしてしまうから職を得るのが中々難しい面もあるのは自覚しているが、上記のようなアンフェアな人、迷惑な人、駆け引きを弄する人と関わるのは、筆者はもう卒業である。人生80年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり、、、なのであるから、夢幻のような限られた人生、オープンマインドで快く毎日挨拶出来る人と仕事もしたいし、私生活も共にしたいものである。

2 件のコメント:

  1. 簡単に言えば、本能寺の変が無いような信長なら、
    それまでの成功もなかったってことでしょうね

    返信削除
  2. 歴史にたら、ればは無いですし再現テストも出来ないですが、ブログ内指摘のポイントに気をつけていれば、「成功して、かつ本能寺の変もない」と言う事も可能であったと思います。

    企業を見ていても、「一時的に革命児として脚光を浴びるものの、時代のあだ花で終わる企業あるいは経営者」と、「継続的に成長し成功し続ける企業あるいは経営者」には、小さいようで大きな違いがあります。

    その「違い」の一部が、例えば上記で指摘したような事柄の有無であろうかと存じます。

    あるいは、当初から上記指摘のような人格の成熟感が見られる人は中々少ないにせよ、人生や事業のステージに応じて、革命児・反逆児から、上記指摘のような「成熟した人格」にシフト出来る企業や経営者は、継続的に成長し成功し続けられる素地があるように思います。

    筆者としては、そう言った内容をお伝えしてみた積もりです。

    返信削除