2010年2月27日土曜日

「資本主義Matrix」を超えて:マネーとの適切な付き合い方 続きその2


(出所:http://www.istockphoto.com/

「マネーとの適切な付き合い方」について、さらに続きである。

今までで、「適切な自己評価、自己信頼を持つ事。適切な自己信頼獲得のプロセスにおいては、子供時代の教育や親からの影響、過去のトラウマ等が複雑に関係している事も多いので、場合によってはコーチやカウンセラーも活用する事。」「負の感情で突っ走り過ぎない事の重要性」「他人と比較せず、マイペースで自分にとっての自分なりの”楽しい””幸せ”にフォーカスする事の重要性」等を書いて来た。

今回は、マネーとの距離感についての話である。


○マネーは、生活に必要な以上の分は「ただのクレジット・信用の概念を表す数字」だと知る。

次に重要なのは、マネー、お金に対する距離感である。

マネー命でそれのために突っ走ると言うのも、一方でマネーを毛嫌いして仙人のようになれと言うのも、どちらも現実的でないし、幸せになるとも言えない。

まず、マネーについて考える際は、その機能について注意を払う必要がある。
そもそもマネーとは、何て多くのかたは普段考えないだろうが、以下少々おつきあい頂ければ幸いである。

日々の生活のために必要なお金、例えばダイコンや肉を買うためのお金、家賃や光熱費などは、「交換手段」としてのお金であり、この分に必要なお金を稼ぎたい、この面で困らない程度の余裕を持ちたいと言うのは、至極健全な精神である。マネーは悪だとばかりに、余り禁欲的になり過ぎるのも良くない。このサイトや他のサイトを見て、適度に就職先を見つけるなりキャリアアップして、少なくともこの点で困らない程度には適度に稼げるようになり、少しづつでも構わないので貯蓄をして、更にゆとりが出て来たら投資をしたり、副業をしたり、と言う形で、現実的で堅実に一歩づつやって頂けば良いかと思う。

一方で、生活に必要な以上のお金と言うのは、「信用創造/収縮機能としてのマネー」「パワーや権力の多寡を概念的に代表するマネー」である。筆者のような金融ビジネスに属している人間が扱うのは、こちらの意味でのマネーである。また、生活に必要な以上のマネーを稼ぎたいと言う欲望であるとか、ブランド物や宝石、子供を幼稚園や小学校から私立に入れて世間が羨むような教育を子供に施さないといけない等の、生活に必要な部分を超える消費に当てられる分のマネーと言うのもこちらに属すると考えた方が良い。こちらのマネーは、単なる概念的な数字、程度に考えておくべきものである。

ポイントとしては、前者の「交換手段としての”お金”」については現実的で堅実な知識とスタンスを確立する事と、後者の「信用、パワーの大小を表す概念としてのマネーの機能」に余り振り回されない事である。

健康で、仕事等を通じて他人に貢献しようと言う気持ちがありさえすれば、前者の「交換手段としての”お金”」位は比較的何とかなるものである。まずこの点をしっかり確認しよう。

一方で、国家の財政破綻とか、老後の年金破綻とか、色々な手段で「マネーが無い事に対する恐怖」を煽るような情報が世間に満ちて居る。

勿論将来的に日本の財政や年金機能が機能するかについては、かなりモデレートで大人しい言い回しをしても「極めて微妙な状態」にある。従って、年金等は自分で用意しておく必要があると言う現実を直視する事は勿論大事ではある。

しかし、余りこう言う情報に振り回され過ぎて、恐怖や欲望を煽られない事は重要である。こう言う恐怖や欲望、あるいは各個人が抱える負の感情や心の隙間に付け込んで、「信用、パワーの大小を表す概念としてのマネー」に対する欲望や、あるいは逆にこう言う概念としてのマネーを持たない事に対する恐怖を煽る事で成り立っている産業や会社、人間も、世間には沢山居る(筆者がこう言う世界に近い所に居るから、尚更実感される)。こう言う誘いには乗らない事、距離を置く事である。

学級崩壊しているからお受験させないといけない?子供を一流大学に入れないといけない?お子さんをお金が無いから不幸にさせるなんて親としてひどいでしょう。ほら、周囲の親御さんもお受験しますよ。だからそのためには多額のマネーが必要?
年金は破綻するから投資商品を買わないといけない?あるいは老後に備えてマイホームを買っておかないといけない?
社会は二極化しているから勝ち組になるために「成功」しないといけない?

こう言う情報の過半は嘘っぱちで、関連産業にて強欲に「信用、パワーの大小を表す概念としてのマネー」を求める人々の単なるセールスピッチに過ぎない。上手いタテマエやリスクを利用して恐怖や欲望を煽ると言うのは、詐欺や押し売り等も含めて、よく使われる手法である。

教育は元来親がするものだ。親からの遺伝として子供もある程度勉強に向いていて、親がのびのび育ててやれば、田舎の公立学校でカネを大して掛けなくてもその辺の一流大学位なら合格出来る。語学力なら親が英語位教えてやればいいし、数学や科学、社会等も同様である。親が子供に必要に応じて適切な教育が出来る程度の知性も、無理強いせずに自然な子供の好奇心を伸ばしながら学ぶ環境を作るような成熟した品性もないなら、子供に勉強の世界でエリートを求めるのは無謀と言うものである。自分が出来ない事を子供に期待しないように。また、自分が出来ない事を無闇にマネーの力で埋めようとしないようにと言う事である。大量のマネーを突っ込んでまで勉強させないとソコソコの大学に行けないと言う事なら、その子供は無理に勉強ばかりするより別の分野に進んだ方が才能も発揮出来るし、惨めな思いをしなくて良いし、幸せで良いと言う事だ。投資効率だってさっぱり良くない。別に高等教育を受けさせる事だけが、子供に社会でやって行く力を付けさせる手段ではない。きちんと生計を立てられる仕事は他にも沢山ある。こう言う事を無視して、半ば周囲に対する見栄と虚栄心で子供に高等教育を受けさせる方向で突っ走ると、高くつく事になる。

年金は破綻するかも知れないし、マネーに対するリテラシーはきちんと持っている必要があるのは事実だが、投資や副業や起業やを焦る事はない。特に20代位のうちは自分に投資する事、自分の今目の前にある仕事を着実にキチンとやって行く、自分の仕事に関連する資格なりスキルなりがあるならそう言ったものを一つ一つクリアして行くのが一番リターンが高い。30代以降は、運動や食生活、過剰に働き過ぎないで休む等の「健康への投資」が重要だろう。健康に65歳か70歳位まで働けるのであれば、別に必ずしも高所得である必要はない。投資とか副業とか起業とか言うのは、その次位のプライオリティで少しづつ取り組んで行けば十分な話である。

また、マイホーム神話は、以前書いた通り、銀行と不動産デベやゼネコンの策略と言うか、巧みなセールスピッチに過ぎない。新築の家やマンションはとっても割高で、買った瞬間に3割価値が減耗する。頭金が3割以下で他に目立った金融資産等がないなら、新築を買った瞬間にあなたのバランスシートは債務超過で、昨今話題になったJAL等と同じ経営状態になる。日本は既に資本ストックの蓄積が進んでおり、住宅についても同様である。これを活用しない手はない。ここと言う定住する場所が見つからないうちは賃貸で済ませて、良い場所が見つかったら中古の家やマンションを買ってリフォームしよう。それで十分である。勿論経済的に余裕があるのであれば自分で設計した家等建てるのは素敵な事であるが、この辺は趣味の世界であり、Mustではない。前回書いた通り、他人と比較して、「自分はマイホームも建てられない」等と嘆く必要は全くない。

更には、別に「成功本」が書くように10倍情報インプットを増やしてアウトプットを20倍にして時間を分刻みで管理して、何て事まで、したければすればいいが、したくないなら別にそこまでする必要はない。筆者からすれば、そこまでキリキリやって、「So what?」「何か楽しいの?」と言う境地である。

大体、そんなにキリキリしないと成功出来ないビジネスは、ビジネスモデル自体、属している業種や立ち位置自体に欠陥があると考えるべきである。成功している人の過半は、物凄い頭が良いとか才能があるとか、寝食を犠牲にしたり分刻みで行動したり情報摂取のスピードを10倍にしたりしているから成功している訳では無い。まあ普通にある程度かある程度以上は努力し続けている中で、幸運にも、自分に合った分野でもって、良いタイミングに、良い場所に居合わせる事が出来た、これで成功していると言う場合が過半である。巡り合わせとか、(セレンディピティとか偶然の必然等でもない、本当のただの、単なる、サイコロ丁半ばくちと同じ類いの純然たる)偶然あるいは外部環境(例えば景況感や、シュウカツの学生で言えばリーマンショックの起きた時にたまたまリーマンで内定を貰っていたのかJPモルガンで内定を貰っていたのか等)に、成功する/しない、特に経済的成功については左右される事も多いものである。余り経済的な成功する/しないと言う結果だけに、こう言う意味でも拘り過ぎない方がいい。心身が消耗するだけである(注)。

話を元に戻すと、その辺の「成功本」に書いてあるように、分刻みで時間管理をして情報インプットを10倍にしてデキるビジネスパーソンに・・・などなる必要も必ずしもないと言う事で、特に20代のうちは、会社員をしながら各自の出来る範囲でスキルや実績を重ねていけばそれで十分だろう。そして先に書いた通りで、将来の会社リストラへの対策、老後の対策、投資や副業や起業やはその後の話で、30代入ってから、仕事のキャリア構築が一服し始める辺りから、位で焦らず少しづつ考えていけばいい。

「信用、パワーの大小を表す概念としてのマネーの機能」にどっぷり漬かってしまっている成功カウンセラーやら金融マンやら成り上がり起業家やら、あるいは時にはセクシーな異性だったりするが、こう言う類いの巧みな誘惑、恐怖と欲望を煽るセールスピッチに振り回されると、マネーに人生を振り回され、彼らに自分の「交換手段としての日々の生活のお金」を収奪される事になる。気をつけよう。

毎日楽しみながら、各自の出来る範囲で、他人や周囲の人に貢献しよう、自分の持ち味の出る分野でスキルや実績を積んで行って、貢献出来る量を少しづつ増やして行こう、こう言う事がシニアになってもちゃんと出来るように健康で居よう。こう言うスタンスさえあれば人生案外何とかなるものである。

そんな訳で、肩の力を抜いて、「日々の生活に必要な、交換手段としてのお金」についてきっちりと現実的で堅実なスタンスで望んで、「信用、パワーの大小を表す概念としてのマネーの機能」からの誘惑に対しては、これはただの概念を示した数字に過ぎない・これが増えようが減ろうが自分の価値の多少にも幸せ度合いの多少にも何の影響もない、と言う考え方で、慎重に距離を取ろう。これが、「資本主義Matrix」に翻弄されてマネーに人生を引きずり回されずに、マネーと幸せを両立するポイントである。


○参考図書

今回の話に関連して一番参考になる書籍は、以前も紹介した以下である。


「灰色の男」に、ちょっとした心の隙を突かれて、キリキリと合理化して、「信用、パワーの大小を表す概念としてのマネーの機能」に翻弄されると、このお話の通り、不幸になる。ゆったりと構えて、各自のペースで楽しめる範囲で仕事やキャリアアップ等していれば、必ずしも金持ちにはなれないが、幸せに過ごせる。映画Matrixと並んで、凡百の経済学の本や成功の本より、資本主義の本質を突いた本である。

ちなみに「灰色の男達」の言う事が、昨今の「成功本著者」の言っている事と酷似していると言うか全く同じなのも面白い。まるで上記書籍を読んで、「灰色の男に私はなるぞ!」と決めて書いているかのようである。


(以下注釈)

(注)この辺の事情は、以前にも紹介した、タレブによる以下が好適。


経済的に成功した人の多くは、「カーネギーだかナポレオンヒルだかの成功哲学本を読んでこの本の通りに前向き全開に努力して頑張り続けて、幸運を掴むために偶然の必然、セレンディピティと言った事を重要視している事が統計的に多い」かも知れないが、「カーネギーだかナポレオンヒルだかの成功哲学本を読んでこの本の通りに前向き全開に努力して頑張り続けて、幸運を掴むために偶然の必然、セレンディピティと言った事を重要視している人々」のうち経済的に成功した人が出る確率は大して高くない・・・とかそう言う、凡百の「成功本」著者の商売あがったり的ながっかり全開の事実が、凡百の成功本著者より遥かに知的で数学・統計的にも正しく、かつ論理倒しでなく直観にも訴える形で、毒舌全開で面白おかしく書いてある。平時は知性も倫理も大してあるとも思えない金融業界(あっと、言ってしまった。汗)から、時折こう言う知性と倫理に溢れた人物や、哲学的とさえ思える著書が出て来るのが、この業界の何とも面白い所である。

また、結果にだけ拘り過ぎると、バーンアウト等の症状になり易い事も心理学の分野では研究されているので、この点も付け加えておく。金銭的な目に見える成功ばかり求めてしまい、プロセス自体、今この瞬間が楽しいかどうかと言う事をないがしろにして走り続けると、燃え尽き易いと言う事である。そう言う意味でも、筆者からは金銭的成功を意識し過ぎない事を勧めたい。この辺は以下も参照。

2010年2月19日金曜日

「資本主義Matrix」を超えて:マネーとの適切な付き合い方 続き

(出所:http://www.istockphoto.com/)

マネーとの適切な付き合い方の続きである。

前回までで、「適切な自己評価を持つ事の重要性」「負の感情で突き進み続ける事の問題点」について述べた。

また、秒速5センチメートルの映画を題材に、過去の心の古傷やコンプレックス、自分を突き動かしている衝動の下地にある思考特性等をきちんと把握する事、またその把握には場合に応じてコーチングのコーチや心理カウンセラー等も活用しながら行うと良い事等を伝えた。

今回は、更に続きを紹介したい。


○他人と比較する事をやめる。

これは、「適切な自己評価を持つ事の重要性」「負の感情で突き進み続ける事の問題点」を別の言葉で言い換えたに過ぎないが、重要な事なので紹介しておく。

自己評価の低い人、(幾ら金持ちであっても)妙に卑屈な人等の特徴として、見栄と虚栄心が強く、他人と比較して自分が(偏差値、収入、会社が一流かどうかの社格等の極めて画一的な指標の中で)上で立たないと気が済まないと言う点が挙げられる。そうしないと、自己評価の低さを埋める事が出来ない、自分に価値があると感じる事が出来ないのである。

こう言う人物は、自分が上に立つために、何が何でも負の感情で突き進み続ける。また、自分より上の人間が出て来ると、嫉妬するか、利用出来るようならへりくだってでも関係を持ち、「こんな大物と付き合いがある」と言う事をこれまた下々に自慢したりする。こう言う人間は、幾ら品があるように振る舞っていても、発想や思考の貧困さ、人間としての未熟さはどうにも隠しようがない。

こう言う人が大量に生産されている要因として、日本の教育や親の子育ての在り方の問題が挙げられる。つまり、教師や親自体が、適切な自己評価が出来ておらず、常に他人と比べて上か下か、偏差値が上かしたか、一流企業に勤めているかそうでないか、年収が高いか低いかと言った貧しい価値観に囚われており、「資本主義Matrix」に、金持ちか否かに関係なく完全にハマってしまっていると言う事である。

結果として、教師(あるいは全体としての教育界自体)は、勉強のできる出来ないでしか子供の才能を把握しようとしない。親は、子供が高学歴になり一流企業に入って貰う事にしか興味がない。精神的に未熟な大人の施す教育は、精神的に未熟な教育となる。「子供が社会に出て苦労しないため」「愛情だ」などと言う建前を振りかざしているが、結局の所、他人に「自分の教え子/子供はこんなに優秀で素晴らしい」と自慢したい、あるいは自分が満たせなかった見栄と虚栄心を子供を使って満たしたいと言う自己中心的で未熟な感性の発露に過ぎない事が多いものである(注1)。

こう言う状況の結果として、他人と比較しないと気が済まない、画一的な価値観で他人と比較した中での上下を意識しないと気が済まない、と言った、何とも貧困で息苦しい価値観が横行する事になる(注2)。

「資本主義Matrix」で紹介したような不幸な循環に巻き込まれないようにするためには、こう言う貧しい発想、他人と比較しないと気が済まないと言う発想から脱出する必要がある。

人生は人それぞれであるし、幸せの形も人それぞれである。衣食住等の基本的な生活を満たすのには勿論ある程度のお金は必要だが、何度も紹介している通り、多ければ幸せになる訳でもない。

他人と比較するのを止めるためには、やはり「適切な自己評価」をキチンと持つ事が重要である。他人と比較されるまでもなく、自分には生まれもって一定の価値がある、と言うベースがありさえすれば、自然と他人と比較する事はなくなるのである。

そして、他人と比較する事を止めさえすれば、「資本主義Matrix」の不幸な循環にハマる事も無くなる。他人と比較しなければ、当初の「自分は何て惨めなんだ」と言う負の感情も発生せずに「自分は自分」とマイペースで行けるし、負の感情をベースに突っ走る事もないし、成功した場合に周囲がバカだなあと思うと言った奢りも自然と発生しないし、奢りが発生しないと各種歪みや不幸への転落と言った事象も起きないからである(注3)。

また、上記のような日本の教育、親の子育てに関する状況があり、各自がこう言う影響にさらされている/いた可能性がかなりの程度ある、と言う事を客観的に把握しておく事も重要である。物事の背後にある構造さえ分かってしまえば、なーんだと言う事になる。資本主義Matrixの不幸な循環にハマってしまう事を避ける事も出来るだろう。


(以下注釈)

(注1)教育の部分では思う所があるので、以下に多少長く注釈を付けておく。

子供が社会に出て苦労しないようにしたいなら、挨拶、周囲への思いやりと感謝の気持ちを持つ、スポーツなり芸術なりの活動を通じての「逆境でも諦めないで淡々とやり過ごしてやるべき事をやり、良くなる状況を待てるような粘り強い心」の習得、適度な運動の習慣や適切な食生活の習慣付けと言った健康のために重要な習慣の定着、読み書きそろばんと基本的な思考能力、信用出来る人と出来ない人を直観的に判別して信用ならない人と距離を置ける能力、と言った人として基本的な部分を教える事が第一である。投資運用の商売をやっていても実感するが、これさえあれば社会に出て苦労はしない。

また、上記以外に、子供が将来食い扶持に困らないように何かもう少し具体的な技能を身に付けさせたいと言う事であれば、別に猫もしゃくしも一流大学にやる必要はない。子供が勉強が好きなら勉強でも良いが、興味を持てるような専門職的・職人的な技能等の習得でも十分である。何かの分野で抜きん出るポイントは、自分がやりたいと思う事、興味の持てる事に集中する事である。

しかし大人の側が精神的に未熟な事が多く、金持ちもそうでない人間も多くが、自己評価の低さを抱えて、「資本主義Matrix」に巻き込まれてしまっていて、一流大学、一流企業、高学歴高年収でないといけない、成功しないといけない、と言った観念に取り憑かれている場合が多いのである。「画一的競争教育」とでも言おうか、そう言ったものに取り憑かれてしまっているのである。

あるいは上記の「画一的競争教育」の反動で、「ゆとり教育」のように、「社会に出て苦労しないための基本的な教育」すら怠ってしまうような状況も見られる。画一的に学校の勉強のできる出来ないだけで子供を判断し、勉強が出来ないとそれだけで子供を落伍者のような扱いにするシステムも十分問題があるが、徒競走で皆1位ですよなんて話も、気色悪い事この上ないし、それはそれで有り得ない。

どちらにせよ大人の側が精神的に未熟であるため、本質から全くずれてしまっているのである。こう言った教育の結果として、適切な自己評価を持つ事の出来ない子供・大人が再生産されている面がある。この点が今日の日本の問題点のようにさえ思う。

ポイントとしては、徒競走でビリになったり、勉強も得意不得意が出たりする中で、じゃあ自分に出来る事は何か、興味が持てて得意な事は何かと言うのを、(偏差値の高い低いとか一流大学・一流企業に行けるか行けないかとか年収が高くなるかそうでないかとか言った了見の狭い価値観ではなく)幅広い分野の中から見つけられる環境、そして興味が持てて得意な事をのびのびとどんどん伸ばせる環境が大切である。

企業で言えば、要するにニッチ戦略である。多くの人間が、自分の得意なニッチ分野に特化して一定のポジションを得る事を推奨する教育戦略である。これはグローバル競争における日本の地位維持向上とも矛盾しない。

勿論、勉強とか、一流大学・一流企業と言ったど真ん中を激しい競争をかいくぐってやって行ける人間はそうすればいい。企業で言えばSamsungだのパナソニックだのトヨタだホンダだのになれる人間はそうなればいい。こう言う意味では日本にも、例えば欧米のボーディングスクールのような「強烈なエリートを育成する教育」があっても良いように思う。筆者の周囲でも、小学校の頃に既に中学や高校位までの数学が出来てしまって、子供の頃学校の授業が退屈だったと言うような人は少なからず居る。日本の教育ではこう言う才能を埋もれさせてしまう。また周囲の「自己評価の低い未熟な大人」もこう言う子供を嫉妬半分うらやみ半分で無駄に褒めそやす一方で、勉強さえ出来れば良いとばかりに挨拶や周囲への感謝と思いやりと言った社会人として基本的な所の重要性についての教育を忘れてしまったりするので、子供が将来「社会に出て困らないようにする」と言う所をきちんと出来ていなかったりする。才能のある子供からすると、迷惑な事である。


一方で、皆に「ど真ん中大企業になれ」と強いる事は無理がある。リソース・才能に限界や制約もある。こう言う場合はニッチ戦略である。

音楽や料理や詩吟、あるいは「場に居るだけで何となく仲間の結束が高まる、場が朗らかな良い雰囲気になる」等の部分で才能がある子供に勉強ばかり強いて、お前は勉強が出来ないからダメだ等と言っていては子供の「自然な自己評価の獲得」の面でも良くない。マクロの資源配分的にも効率的でもない。更に言えば、発想が貧困で未熟な大人には「場に居るだけで何となく仲間の結束が高まる、場が朗らかな良い雰囲気になる」と言った、「どの勉強科目にも属さない事柄」が「才能だ」と認識するキャパシティすら無い事も多い。

音楽が出来る子供には音楽で、料理は料理で、詩吟は詩や文学の分野で、「場に居るだけで何となく仲間の結束が高まる、場が朗らかな良い雰囲気になる」ならコーチや経営者、カウンセラーもいいし、あるいは職場の秘書、グループセクレタリ等も行けるだろう(こう言う人が職場に一人居るとそれだけで会社が良い回転/雰囲気になり非常に助かる。経営者を見るときも、秘書がこう言う才能のある人物か、ただ美人なだけの姉ちゃんかと言うのは要チェック項目である)。こう言う、各自のニッチ分野で自己表現出来るような環境が重要だと言う事である。

(注2)こう言う感性に付け込んで、幾多の「成功本」の類いが本屋で棚を埋める事になる。(そして過半に見るべき内容のものは無い訳である。)

(注3)こんなマイペースじゃ成功出来ないし、こんなマイペースの人ばかりに日本人がなったら国際競争力を無くし、グローバル資本主義の中でやっていけなくなるんじゃないかと思われるかも知れないが、必ずしもそうも言えないように思う。

例えばプロ野球のイチロー選手等は、こう言う境地に至って成功し続けているタイプのようにも思われる。他人と比較してそれに勝つ事をモチベーションにしていたら、イチロー選手はもうとっくに比較する競争相手も居ない位の高みに居るので、記録を出すモチベーションが続いて居ないだろう。イチロー選手に関する書籍等を見てみても、試行錯誤の末に「長打を打つために無理にアメリカ人のような体型、筋肉マッチョになろうとしない」と言った方針で行く事にしている等、「自分らしさ」を追求した結果、今のようなプレースタイルになっているようにも見受けられる。

他人と比較して勝った負けたと言う状況から抜け出して初めて、「突き抜けた才能の開花」「他人との競争を意識している訳では無いが、結果として世界で通用するプレーヤーになれると言った状況が実現する」と言う面があるようにも思う。

2010年2月13日土曜日

資本主義Matrixと秒速5センチメートル

(出所:秒速5センチメートル)


お元気ですか?

今、窓の外には雪がちらついていてしんしんと降り積もり、外はとても静かです。

首都圏で雪なんて、最近珍しいですよね。

平日の、忙しなく学校や仕事に出かけなくてはならない日の雪は中々好きになれないけれど、

お休みの日の雪は好きです。

紅茶の湯気と微かな香りに包まれて、特段用事もなくて。

読みかけの本を何となくめくったり、こうしてお手紙を書いたり。

何だか少しほっとします。

最近忙しそうですが、最近ほっ、と心休まる時間はありますか?




・・・ってこらこら、いつから三文ポエムの部屋になったんだこのブログは(汗)。


とは言え、実際雪がちらついて、出かけなくて良く、人ごみの中でぐちゃっとした溶けかけの雪に湿る靴下等で気持ち悪い思いをしたりしなくて良い、ハーブティ等入れてみたりする休日の首都圏の雪である。中々良いものである。



秒速5センチメートルと「資本主義Matrix


そんな訳で今回は、前回紹介したアニメ映画「秒速5センチメートル」の主人公「タカキ」が陥った「資本主義Matrix」と、そこから得られる教訓についてちょっと書いてみたい。以下ネタバレなのでご留意頂きたい。


(以下、ネタバレ注意)



○第一話:一瞬の至福の時間と、タカキにコンプレックスあるいはトラウマが形成される。


第一話のタカキに全般的に感じられるのは、「子供であるが故の無力感」である。

アカリを何時間も待たせたく無いのに、電車の中で待つ以外にない。

鹿児島になど引っ越したく無いのに、親の仕事の都合でどうしようもない。

アカリは目の前に居て、唇の感触や肌のぬくもりも感じられ、ずっと彼女と一緒に居て彼女を守りたいのに、その至福の時間はほんの一瞬で、守る事が出来ない。

第一話の最後の所で、「アカリを守るだけの力が欲しかった」と言った類いのモノローグがタカキから語られる点が、印象的である(注1)。



○第二話:アカリの幻影を思い浮かべながら、心ここにあらずで頑張る


第二話の種子島でのタカキは、どこか心ここにあらずである。


カナエが自分の事を好きである事も薄々気づいて居て、優しくはする。


しかし幾らカナエが近づこうとしても、タカキは心ここにあらずで、その距離は埋まらない(注2)。カナエが告白しようとして耐えられなくなっていたその時に発射されたロケットで、空がまっ二つに分断されているシーン等は、この二人の距離のメタファーだろう(注3)。


タカキが打つ携帯電話のメールは宛先の無いもので、文面も「異星の草原をいつもの少女と歩く。いつものように顔は見せない。空気にはどこか懐し」と、アカリの事を漠然と思う内容である。


ここでポイントなのは、携帯のメール文面が「アカリ」と固有名詞でなく、「いつもの少女」になっていて、映像内のタカキの想像・幻想のシーンではアカリと思われる少女の顔の表情等が描かれていない点である。メールをアカリ宛でなく宛先無しで漠然と打っている事から、アカリとは連絡が既に途絶えている事も分かる。第一話の「実際に触れられる距離」とは対照的で、実際の二人の距離も、心的な二人の距離も遠くなっている事が自然に鑑賞者に感じられるようになっている(上手い!)。


そしてタカキは悟ったようなふりをしながらも、「余裕無いんだ、俺」とカナエに呟いている。カナエが高校に入る際に猛勉強していたシーン等から、恐らくタカキとカナエの通う高校は地元の進学校で、タカキについては「アカリ(あるいは漠然とした「いつもの少女」)を守れるだけの力」を得るために、東京の大学(鹿児島や九州を出る事が合理的な位なので、恐らくある程度以上偏差値の高い大学)を目指していた、と言った状況だろう。



○第三話:「Matrix資本主義」における典型的な下方循環。「誰かを守れるだけの力」は得たが、手段が目的化し、何のためか分からなくなり、ある日自分が囚われていたものが何だったかを知る



第三話は、タカキが恐らく都内の大学を卒業し、SEあるいはプログラマとして仕事をしていた段階の描写である。彼はがむしゃらに仕事をする。


「この数年間、とにかく前に進みたくて、とどかないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的ともいえるようなその想いが、どこから湧いてくるのかも分からずに僕はただ働き続け、気付けば、日々、弾力を失っていく心がひたすら辛かった。」


とある。つまり、この時点ではもう、がむしゃらに仕事をしている理由が、元々は「アカリを守れるだけの力が欲しかった」からだと言う事も、すっかり忘れてしまっている。


こう言うのが、「Matrix資本主義の循環」の下降局面で非常に典型的な現象である。タカキは会社を辞めても独立プログラマとして生計を立てている位であるから、有能で稼げるプログラマにはなったのだろう。しかし幸せからは強烈に遠ざかっている。


そしてそう言った状況に囚われてしまっている理由が、自身も忘れてしまっていたような、子供時代に形成されたトラウマやコンプレックスだったりする。マネーと言う概念は、こう言う心の隙間、かさぶた位になった心の古傷に巧みに付け込んで来るものである。いやほんとに。マネーや権力に取り憑かれてしまったり、ワーカホリックで家庭やパートナーを顧みない男女も、遡るとこう言うプリミティブな心の隙間に原因がある事が結構多いのである(注4)。


「そしてある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実だった想いが綺麗に失われていることに僕は気付き、もう限界だと知ったとき、会社を辞めた。」


・・・と続き、更には、その時に3年間付き合っていた彼女とは、「あなたのことが今でも好きです。でも、私たちはきっと1000回もメールをやりとりして、たぶん心は1センチくらいしか近づけませんでした。」と彼女から最後通告を受けて別れる事になる。タカキのメタファーでもあるロケットは、太陽系外に抜けていき(そして探査ロケットとしての役割を恐らく終えた)とコンビニで立ち読みした科学雑誌に載っていた(こう言うさりげない所にもメタファーが込められているのが上手い)。これで資本主義Matrix、頂点→下り坂→終局と、一循環終了である。この映画のお話自体は、特に主人公のタカキの観点では、底から頂点に昇って行く物語と言うよりは、一番幸せな子供の頃の原風景を頂点として、坂を下って行く物語と言える。


そしてタカキもアカリも同じ夢(これが第一話の内容)を見て、偶然にして子供時代に通りかかったまさにその踏切と思しき踏切で、既に結婚したアカリと思しき女性とすれ違う。


電車が過ぎ去った時、彼女の姿はそこには無かった。しかし、タカキは一瞬驚いた後、微かに微笑んで、確かな足取りで歩いて行く。


この時点で、遂にタカキは、「自分は何に囚われて居たのか」を悟ったのである。それが分かった事で、今まで「どこから湧いて来るかも分からなかった、脅迫的ともいえるようなその想い」の所在を突き止める事が出来、やっと不幸なサイクルから脱出して、「遠くの高き」所に居る星(アカリ)の幻影を求め続ける事を諦めと共に止め、地に足の付いた一歩を踏み出す事が出来るようになったのである。それが、最後の複雑な微笑の含意であろう(勿論捉え方は色々可能であり、色々な解釈が可能なのがこの手の映画の良い所であるが)。資本主義Matrixで言えば、頂点から坂を下って行って、遂に底が見えて「再生」の兆しが見えた、と言う「微かな希望」の雰囲気で物語を終える、と言うパターンである(注5)。


60分少々の映画に、よくここまで色々濃密に色々なテーマを凝縮したものである。


そして、資本主義Matrixとの関わりで言えば、マネーに翻弄されずにきちんと人としての幸せと両立させる事を考える場合、過去のプリミティブな古傷や忘れかけたトラウマ等も含めて、きちんとその所在を確認する事、自分を突き動かす衝動がどこから来ているのかを理解する事が重要である事を、この映画は確認させてくれる(注4)。きちんと過去の古傷も含めた自分の内面、思考の特性を把握した上で受け入れる事が出来れば、そう言った古傷が不幸を呼ぶ事はだいぶ減るようにも思う。


注4にも書いてあるが、こう言った作業を適切に行う場合、一人でやるのも良いが、必要に応じて心理カウンセラーやコーチングのコーチ等の助けも借りると良いと思う。海外のヘッジファンド等だと、トレーダー専門のコーチ/カウンセラーを活用している場合もある。


そんな訳で、「秒速5センチメートル」、普段アニメを観ないかたにも、お勧めである。



(以下、注釈の解説)


(注1)話はタカキからはそれるが、一方でアカリについては、もうタカキと会う事は無いかもしれないな、と言う事を感じていて、男女の距離感がこの時点から既に微妙にすれ違う感じに表現していた点に、制作者の巧みさを感じる。「距離感についての映画」と言う主題で作っただけの事はある。


「タカキ君はきっと、この先も大丈夫だと思う、絶対。」と別れ際に言うアカリの台詞にその辺が表現されている。行間を埋めると、「タカキ君はきっと、”私と居なくても”、この先も大丈夫だと思う、絶対。」と言う事である。何と言うか、芸が細かい。


また、前回のブログで、第一話の中で「携帯電話の無い昔に、地方都市にスタバがある」と言った矛盾を指摘した。この他にも、第一話に出て来る車の車種等が、スーパーファミコンに少年ジャンプの頃の昔には有り得ない車種だったりする等の点もある。この点については、映画を作る際にロケをしたままの現在の風景を単純に過去の映像にしてしまったと言う可能性もあるにはある。


しかし、この点に関しては、第一話全体が、第三話の時にタカキとアカリが見た「夢」だと解釈すれば解決する。夢の中で過去を観る場合、例えばスーパーファミコン、ジャンプ、親に聞かれたくないような「子供なりに込み入った話」を公衆電話でやる(筆者も子供の頃、これは結構やった気がする。ガールフレンドとの長電話とか)、と言った「過去を象徴する部分」については子供の頃の原風景として強調して表示される一方で、景色の細部等は現在が混ざってしまったりするものである。「第一話は、全体として、第三話の現在の大人のタカキとアカリが、アカリが結婚する間際に見た夢ですよ」と言うメタファーで敢えて昔の地方都市にスタバを描写していたりするんだとすれば、芸が細かいしもの凄い上手い。



(注2)ちなみに、カナエの心情のメタファーになっているのが、第二話のカナエの姉の車やコンビニでかかるリンドバーグの曲である。リンドバーグとカナエの雰囲気も一致するし、「もう少し もう少しだけ このままでここにいて 感じていたい 大丈夫 大丈夫だよ 自分に言いきかせながら 涙 あふれて とまらないのは べつに 君の せいじゃないよ」と、歌詞もぴったり来ている。第三話の山崎まさよしの歌/歌詞でもってたった10分内外の中に多くを込める手法も含めて、何と言うか上手い。



(注3)また、ロケットについてはタカキ自身のメタファーでもある。遠野貴樹=遠くの高き、篠原明里=アカリ=明かり=星のメタファー、と言う主人公とヒロインの名前にもその点示唆が込められている。。ロケットは、余裕なく「アカリを守れるだけの力」を付けるべくロケット噴射のごとくがむしゃらにやる事をやり都内の大学を受けて、東京に戻り星=アカリにたどり着く事を求めるタカキのメタファーである。


更に言えば、第二話のカナエ=花苗は、ずっと遠くの高きを見つめて星アカリを求め続けているタカキと対照を為しており、花の苗と言う名前同様、自然のある種が島(「種」が島に根付く「花の苗」、と言った関係になっている)で一つ所に留まる事、あるいは近くに居る異性を好きになる事で幸せを見いだせる人物の象徴として描かれている。


名前にメタファーを込めるのは小説や映画の基本的な手法であり、こうやって解説していると、計算されて作られた映画だなーと改めて尊敬する。消費者として映画を消費してこうやって解説するのは簡単だが、スクラッチからこう言う世界を作り上げて、かつメタファーをミエミエにし過ぎずしかし鑑賞者が気づきはするようにさりげなく自然な形で表現するのは、大変な事である。



(注4)こう言うのは、自分一人で発見しようと思うと中々難しい所もある。起業家、外資系金融やヘッジファンド等で大量のマネーに晒されるプロフェッショナル、政治家等の権力と近い所にある職務に就いている場合等は、専属の心理カウンセラーなりコーチングのコーチなりの心理学/精神分析のプロフェッショナルを付ける事をお勧めする。


マネーと対峙するとは、すなわち自己の内面の奥深くを覗く事に等しい。自己の内面に矛盾や葛藤、シャドーがあれば、マネーと言う虫眼鏡・心の拡大鏡を通じて、それらを実際に目に見える出来事やトラブルとして経験する事になる。相場に参加する際に、心理学等にある程度精通しておく必要があるのは、行動ファイナンス等に詳しくなるためと言う観点以外に、こう言った面もある。


(注5)神話論は知っていると色々使えるのでお勧めである。最低限映画の見方は少し変わる。


神話と言うとヒーローものや冒険ものにしか適用出来ないのではないかと思うかもしれないが、当ブログの通り、恋愛モノでも結構な確度で利用可能である。


ハリウッドの良くあるハッピーエンドの恋愛ものは、神話論の底〜頂上に上がるまでの物語が多い。


一方でフランス映画や日本の映画、単館上映もの等のうち比較的観るに耐えると言うか多くの人の心に普遍的にリーチし易い映画だと、例えば都会の出世競争に敗れて疲れ切って田舎に籠って、とかそう言う出だしから始まる恋愛ものの類いに代表されるように、比較的頂上から坂を下って行く感じのかなり救いようの無い話をした挙げ句、終わりの方で「再生」としての希望が見えて終わる、と言う話が比較的多いように思う。


また、神話論を人生の展開に当てはめれば、今回のタカキの状況の解説でも伺われるように、色々示唆がある。現状の自分が神話論のどの辺に居るのかを考える事で、人生をよりよくするためや、株の投資であれば経営者の判断等にも活用可能である。右の参考書籍欄の神話論関連の書籍も参照。

2010年2月10日水曜日

「秒速5センチメートル」と「成長」の先にあるもの

(出所:秒速5センチメートル)

雑談編。
DVDの「秒速5センチメートル」を鑑賞。
新海誠の作品は、どれもアニメだから可能な手法で「子供の頃の原風景」を思い出させる感じで良い。日本のアニメ産業も中々難しいようだが、案外捨てたものでも無いなと、こう言う作品を見ると確認出来る。

主人公の男がちょっと自己陶酔おセンチ気味な事、携帯電話が無かった頃には地方都市にスタバはまだ無かったんじゃないか(スタバも上場企業。確か開示の店舗数の推移とか的に「あれっ?90年代で地方都市にスタバ?」とか細かい点が気になってしまう。職業病である)とか細かい事は気になったが、中々良かった。第一話の子供の感性での東京→栃木県の電車の長い距離感の表現、第二話の女の子の告白が中々出来ない微妙な心の動きの描写(おじさんになるとすっかりこう言う感覚が過去のものなので、懐かしくなるものである)、第三話の主人公のリアルな荒み具合と最後に感じられる微かな希望、その他作中のストーリー展開に合わせた微妙な映像面や台詞内でのメタファー等、中々よろしい。

また、映像美が特筆すべきで、最初に掲載した桜の映像を初めとして、背景の映像美に対する執着は特筆すべきものがある。現実に限りなく近いが、一方で完全な写真よりは意図的に解像度を落としたり、陰影やバランスをディフォルメしたような映像で、「誰もが子供の頃に持つ心象風景」にリーチするような映像面の演出・工夫が為されており、この点素晴らしい。

脚本の言い回し(独特の比喩が多い点)、その他子供の頃の淡い恋の描き方、その他全体の雰囲気等、村上春樹のアニメ版のような感じである。村上春樹の小説を、新海誠氏に映像化して貰ったら結構面白いものになるんじゃないかと。あるいは村上春樹氏に脚本を書いて貰って映画を作ったら非常に良いのではと。天門と言う作曲家のピアノ曲も中々良い。以下で採譜した楽譜が取れる。練習中。。。


他のBloggerを見ると、中国とか、チリとかのブログでこの作品をお気に入り映画に挙げている人が居たりして面白い。

例えば経済成長著しい中国人がこういう「成熟した国、成長の無い国ならではとも思える、過去の美しい原風景・想い出の呼び起こし」的な映画を観て、良いと思うのだろうか?と思うと興味津々である。あるいは急速に経済成長してしまって、沿海部の若い人々などは、既に急速に感性が「先進国のお疲れモード化」しているのかもしれない。

まあ成長成長言われても疲れる、株式市場が将来の成長を一瞬で織り込んでしまいもっと成長しろと言われると段々問題も出て来る、と言うのは万国共通である。中国もすっかり市場経済であるし、これに翻弄される個々人は中々大変だろう。「もうそろそろいいんじゃないんですか」とか、「もうそろそろGDP成長率からGDHに移行しよう」とか、「そもそも金利とか資本コストと言う概念の存在から、色々問題が出て来て居るんですよ」とか、誰が言い出すんだろうか(注)。最近経済学者でもスティグリッツ等がこう言う事を言い始めては居るけれど、まあ筆者のどうにかなる話では全くない。

中国を観ていると、2015年位から早くも高齢化社会に悩む事になり始めるし、何だか他の国が何十年もかけて経験した「新興国→先進国→成熟・ピークアウト」の流れを、もの凄い駆け足で駆け抜けているようにも思う。

そう言う意味では、こう言う映画が(ニッチ狙いでは勿論あるだろうが)案外中国(や他のエマージング市場)に通用するようになるのかも知れない。「ジャパニーズ的、もののあはれ感性」が中国10億人、あるいは沿海部の数億人位にでもリーチする事になったら、これは結構凄い市場規模である。経済規模では既に日本が中国に抜かれる事は確実なので、日本が残る道は文化面等で活躍する事だろう。


(以下注釈)

(注)「モモ」を著した、ミヒャエルエンデ氏辺りは生前にこう言う事を言っていた。「モモ」はマネー資本主義の構造を結構強烈な皮肉でもって非常にシンプルに書いた、資本主義を学ぶ上での好著である。


この本で出て来る、「灰色の男」「時間の節約」とは詰まる所、金利・資本コストの事である。時間の経過自体に金利が付くから、出来るだけ短期間で効率良く資本を回さないといけない、高リターンを上げないといけない。そこから全ては始まる。

そして例えば上場企業は株主資本コストを満たすROEを出すべく従業員は馬車馬のように働いたり用済みになったりすればリストラしないといけないし、利益が横ばいでは段々ROEの分母が増えて行って利回りが落ちるので増益し続けないと行けない、と言う何だか胃のキリキリする話になり、、、あれ、何だか「モモ」の話みたいじゃないか、と言う事になる。

興味のある方は、「エンデの遺言」等も読んでみると面白いだろう。

2010年2月6日土曜日

「資本主義Matrix」を超えて:マネーとの適切な付き合い方

(出所:SONY)

さて、今回から、”「資本主義Matrix」を超えて”と題して、今まで連載したような、幸せになれない「資本主義Matrix」の循環から距離を置いて、幸せになれるようなマネーとの付き合い方について考えてゆきたい。


○「適切な自己評価」を持つ事がまず何よりも重要

何を唐突な、と思われるかも知れない。

しかし、上場企業の経営者を取材や企業分析の中で見ていても、また自身が運用の仕事をしていても、資本主義、マネーと適切な距離感を持って付き合うには、この点が非常に重要だと実感している。

なぜならば、「資本主義Matrix」にはまってしまう理由として、多くの人が、成功するための動機付けに「負の感情」を用いてしまうと言う点が挙げられるからである。

例えば、お金が無い、異性にモテない、会社の上司等に酷い目に遭わされた、冴えない会社員をやっている自分が情けなく見える、等等。こう言った状況、言わばコンプレックスに対して、「こなくそ」「競争に勝って下克上するぞ」「世間に自分の凄さを認めさせてやる」「こんな惨めで冴えない状況からおさらばだ」と言う気持ちでもって頑張る。こう言うパターンが、本当に多いのである。

しかも厄介なのは、この手の怒りにも似た「負の感情」は、モチベーションとして非常にパワフルで力を生むので、こういった気持ちでもって突き進むと、ある程度成功してしまう点である。「負の感情」で突き進む事が正しいのだ、なぜならそれで結果が出るんだから、と思ってしまい、「負の感情」を用いる事が中毒的になる傾向があるように見受けられるのである。

しかし、こう言った感情で突っ走ると、先のMatrixの話で書いた通り、色々な形で問題が起きて来る。コンプレックスの裏返しで、成功すると共に知らず知らずのうちに自意識が肥大して来るからである。

元々惨めだった自分が、大逆転の大勝利。皆が褒めそやしてくれる。昔自分の事をボロクソに言っていた上司や同僚が、頭を下げて「部下にしてください」「雇ってください」等と言って来るかも知れない。マスコミ等で褒められるかも知れないし、成功者として講演等で壇上から話をしたりする機会も増えるかもしれない。成功するまでは会話も出来なかったような美女(美男)と知り合えるしあれやこれや出来るかも知れない。桶狭間の戦いで今川義元に勝った織田信長のような気分、あるいは悪党にボコにされた後にお師匠のもとで修行して遂に悪党に勝ったジャッキーチェンのカンフーものの映画の主人公みたいな気分である。それは気分が良いだろう。

しかし、こう言う所から転落は始まるのである。奢り、あるいは英語で言えばComplacencyとでも言えば良いだろうか。知らず知らずのうちにそう言う状況になり、家庭やパートナーを顧みなくなり、経営者なら成長速度の遅い従業員や、勝ち組ビジネスマンなら周囲の凡庸な同僚を「バカだなあ」と思うようになって来るようになる。人を優秀かどうか、ビジネスになるかどうかと言った視点で見るようになり始める。こう言った所から、転落の道は始まるのである。

こう言ったマネーに関わる浮沈のもとになるのが、「負の感情」である。
そして、「負の感情」が生じる理由が、「適切な自己評価」が不足しており、自己評価が低い事にある場合が少なくないのである。


○元々「成功者」(あるいはあなた)は「惨め」で「冴えなかった」のか?

ここで少し考えてみて欲しい。元々「成功者」(あるいはあなた)は、そもそもの出発点として、「惨め」で「冴えなかった」のだろうか。

金持ちでなければ惨めだろうか。

勿論、日々の衣食住にも困る位であれば惨めな気分にならざるを得ない。そう言う場合は、しのごの言わずにまずは普通の生活が出来る所まで這い上がる必要がある。それは否定しない。

しかし、それ以降については、実際にはカネがあれば偉いと言う訳でも、先のMatrixで書いた通り、必ずしも幸せになる訳でもない。人間、大富豪でも一般人でも、毎日寝て起きてトイレ行ってメシ食って何十年かで死ぬのだ。カネがあれば先端医療だの大地震が起きても問題無い頑丈な家に住むだのであの世に行く時期は延ばせるかもしれないが、結局あの世には皆行くし、あの世にカネは持って行けない。成功するためのストレス等で、思わぬ早さで亡くなってしまう金持ちも実際には居る。

結局の所、普通の生活に必要なお金は勿論大切だが、普通の生活で必要な以上の「マネー」は、ただの数字、記号である(注1)。

今時服だってユニクロやH&M等使えば安価にソコソコこぎれいな服装も出来るし、料理でも習って自炊して、仲の良い友人や異性と2−3000円のワインや日本酒でも開けてパーティすれば十分楽しい(注2)。こう言った事を楽しめるために必要な状況と言えば、心身共に健康である事と、後は年収で言えば年収300万円よりは上かも知れないが、別に金持ちである必要は無い。幸せとは案外身近な所にあるものである(注3)。


学歴の高い低いと言った点も、価値観のほんの一面に過ぎない。これは日本に限らず米国等の他の先進国でも同じかも知れないが、子育て等の面で、学歴中心の考えを子供に押し付け過ぎである。勉強以外にも才能は沢山あるし、素晴らしい才能が必ずしもマネタイズしやすいものばかりではない。しかしマネタイズ出来なければ価値が無いのかと言えばそんな事はない(芸術分野等)。

金融業界の面接のお作法の所で、確かに金融業界の場合は学歴が高くないと入りづらいと書きはした。これは事実である。しかし、では金融業界で仕事をするのがそんなに偉いのだろうか。筆者の実感で言えば、「確かに大量のマネーが巡っている中に身を置く事になるので、給与は全体として(能力や努力量が同じなら)他産業より貰い易い」ようには思う一方で、先のMatrixで書いた通りで、マネーの力に翻弄されて幸せから遠ざかってしまうような事例も少なくない。高学歴だから得られる金融以外の仕事(官僚とか、コンサルとか)も、似たようなものだろうと思う。権力なり、マネーなりが集まる所と言うのは、気をつけていないと色々面倒と言うか副作用も起き易いのである。

世の中には学歴が無くても金銭的に成功する人は沢山居るし、学歴も目立った金銭的成功が無くても幸せな人はもっと沢山居るだろう。誰にとっても隣の芝生は青く見えるものである。


会社員がそんなに惨めだろうか。
これはブラック企業等の場合だと本当に惨め(筆者も、土日なし、睡眠時間3−4時間でエンドレスと言った劣悪な環境下で仕事をした事はあるのでそれはよく分かる)なのでその場合は何とかそこから脱出して普通の生活が過ごせるような状況に持って行く事が勿論第一となる。
しかし普通の会社であればモノは考えようである。

会社と言うのれん、顧客基盤、各種インフラ等を使わせて貰う事で自分一人では出来ない事をやれると言う面もある。
満員電車が嫌なら職住近接して自転車通勤するなり、早起きして空いている電車に乗ればいい。
出世して役員等になりたいと言う事でも無ければ、嫌な上司とは距離を取って最低限の挨拶位を適当にやっておけばいい。
風邪を引いたら休めばいいし、旅行に行きたくなったら有給休暇を使えばいい。良くも悪くも自分一人位何日か休んだって普通にビジネスは回る、それが会社である。
毎月給料日に一定のキャッシュインがあり、社会的信用も容易に得られる。
日本は祝日も多いため、1年365日の1/3位は休日である。
今時、会社側も大した給与を払えない事、終身雇用に手厚い年金等を従業員に提供出来ない事は自覚している。このため1年の1/3の休みの時に副業なり起業準備なりしても、最悪企業側に副業の事が知れてしまったにしても、厳密には就業規則違反ではあっても企業側も大目に見てくれる場合が過半である。(但し普段の会社の仕事に影響が出ない事、周囲の従業員等に知れないように目立たないようにやる事、会社の顧客名簿等の会社の資産を流用したりしない事、会社の競合になるビジネス等の利益相反になるような副業はしない事等が条件ではある。)株式や不動産の投資なら就業規則面でも何の問題もない。
割り切ってしまえば、考えようによってはこんなに美味しいビジネスモデルも希有である。


異性にモテなければ惨めだろうか。
まあ、多少惨めかも知れない。それは否定しない。

しかし、金持ちになって美女(美男)にモテてやると言う動機付けは、幸せからは遠ざかる思考である。カネを稼ぐようになってからすり寄って来る(あるいは今は金持ちでなくても、学歴や資格、勤務先企業、起業した事業の将来性等から将来カネを稼ぐようになるだろうと言う目論見のもと寄って来るような)美男美女の異性なんかにロクな異性は居ない場合が殆どである。男女関係は株の売買ではない。「婚活」ブーム等を見ていると、どうも男女関係において、異性をDCF法で将来の期待キャッシュフローを現在価値で割り引くような思考で「投資判断」をしている「アラサー」が昨今増えているような気がしてならない。毎日マネーとマーケットの事ばかり考えて居るヘッジファンド屋から見てもハッキリ言って異様である。

加えて、美人や美男なだけと言う事であれば直ぐに飽きる。そう言う場合、デートしてホテルに行くまでの過程が一番楽しく、2−3回位セックスして、付き合っているうちに現実/日常が見え始めて来たら概ね飽きる。4回目以降は「現実/日常」を見ても一緒に居られる位気が合うかどうかの問題で、美男美女であるかなど殆ど何の意味もない。ファクター感応度ゼロである。これは断言していい。遠足は行くまでが一番楽しい。この厳然たる事実は子供も大人も一緒である。「不倫は文化だ」の石田純一だって、昨今遂に再婚したではないか(氏の場合は、再婚した後にどうなるのかについては筆者の知る所ではないが、それは置いておこう)。

結局の所、ジミでも何でも、カネがあろうが無かろうが一緒に居られて、双方それなりに欠点もあってぐだぐだしていて、普段異性としての色香が充満してるかと言うと余りそう言うのは感じられないが、一緒に居て気楽で落ち着いてぼちぼち楽しくて、たまに記念日等でちょっと双方おしゃれして良いレストランで食事したり旅行したりしたら「普段だらしないしパッとしないけど案外こうやって改めてみるとまんざらでもないし、案外異性としても悪くないな」位には思える。何より互いに、互いのぐだぐだした所や冴えない面も含めて受け入れている。この位のぴったり来るパートナーが一人見つかれば結局の所十分、と言うか、幸せになるには十分過ぎる位である(注4)。歳を取って景気循環ならぬ人生循環一巡りすると、だんだんこう言う所が結論になって来るものである。

で、こう言う人を人生で一人見つけるのに、ルックスの良さや金銭的成功等は必要無い。ましてや株の投資のごとく、所得・職業や出身大学や趣味等でスクリーニングして「婚活」などして見つかるものでもない。むしろ金銭的/キャリア面の成功やルックスの良さ等があると、そう言った外面に惹かれて寄って来る人間が増えるので幸せになるには邪魔な面もある。

そう言った訳で、まあ飽きるまで、「大人の遠足」やら「大人の火遊び」やらやってみたり、見た目のルックスや色気にほだされて付き合ってみたら酷い目に遭うと言ったアクシデントを多少経験してみないとこの辺は中々実感が湧かないのかもしれないが、異性にモテないと惨め、と言うのも、大方の場合単なる思い込みに過ぎない。人生の中でぴったり来る相手が見つかれば良いのであって、別にモテる必要はない。


○まとめ

つまり、言ってみれば、当初の自分が「惨め」だと言うのは本人の思い込みに過ぎず、「自分で自分の事を適切に評価出来ない、自己評価が低い」と言う場合も多いのである。

そして、自己評価が低い事が、「見返してやる」と言った負の感情に繋がり、負の感情に基づいて成功目指して走り続けると、成功した時には逆に成功に舞い上がってしまい奢りを生み、色々な面で問題が起きて来て、やがて破綻するのである。全ては当初の「自分は惨めだ」と言う誤った思い込みから来ている。

そんな訳で、あなたも筆者も、別にカネを稼ごうが稼ぐまいが、成功しようがしまいが人間として一定の価値は生まれもってちゃんとある。一方で、幾ら金持ちになったからと言って自分の価値が他人より大きくなると言う訳でもない。この点を最初にしっかりと腹に落ちるまで実感しておく事が、「資本主義Matrix」にハマってしまわないために、何よりも重要だと感じる訳である。

「きちんとした自己評価を持つ」事の重要性は、筆者の仕事の中でも実感出来る。
例えば取材先の企業を見ていても、いつまでも社長が「見返してやる」的な反骨精神と言うかコンプレックスの裏返しのようなスタンスで「戦って」いるような会社の成長はどこかで破綻する。一方で無理せず飄々としていて、一見すると「この競争社会を一体勝ち抜いて行けるんだろうか」位の感じの社長が運営する会社が案外不況等にも打たれ強かったりする。

また、運用の仕事をしていても、運用パフォーマンスが良いと舞い上がって、悪くなると惨めな気分になっていては、パニックになってしまいきちんと運用が出来ない。儲かろうが儲かるまいが、金持ちになろうがクビになろうが自分は自分だ、と言う感覚が、第一歩の立脚点として重要であるように昨今思う。


○参考図書

以下に、今回のトピックについての参考図書を幾つか。


上記は天外伺朗氏の著作。天外伺朗と言うのは著作用のニックネームで、実際はソニーでAIBOの開発をはじめ数々の功績を残し、役員にまでなった人物である。上記は、筆者が今まで出会った中で一番本当に運用も上手い上に生活面含めてバランスが取れていると思ったヘッジファンドマネジャーに薦められた本である。

その辺の一般の「成功本」の類いとの品性の違いと言うか、人生の本質への迫り具合の違いを実感して頂ければと思う。この本の紹介をしたかったので、ブログ表紙の写真をAIBOにさせて頂いた。

頭では理解出来ても、中々この本に書いてある境地に到達するには時間がかかる面もあるのだが、「資本主義の不幸なMatrix」にはまり込まずに幸せな形で人生を進めて行くための指針として、天外氏の著作はどれも素晴らしいと思う。人生で迷った時等に、何度も読み返す価値がある。



上記は浮世満理子氏の著作。心理カウンセラー出身で、スポーツ選手等のメンタルトレーニングを専門としているようである。カウンセラーだけあって、「ポジティブ思考全開」の副作用の多い偏った思考の問題点を踏まえて書かれていて、バランスが取れているように思う。



相場に取り組む際に自己陶酔と自暴自棄のサイクルがどう言う影響を与えるのか、相場における「適切な自己評価」の重要性と言ったトピックで行くと、この本が出色である。


次回以降で、更にマネーとの適切な付き合い方について書いてみたり、あるいは「資本主義の新しい流れの萌芽」として、マネーとの適切な付き合い方をしながら良い仕事をしている人や会社を紹介してみたいと思う。



(以下、注釈)

(注1)この点については、この商売をしていると本当に実感する。中央銀行がお札を刷りました、金融市場にマネーが流れます、金融資産の価値が増えます、中央銀行が利上げします、マネーの流れが遅くなります、金融資産の価値が減ります。こう言った事が「半分バーチャル、半分現実」位の感じで為されており、実態としては何の変化もないはずの企業や不動産であるにも関わらず、その「価格」と言う名の数字が上下して、自分自身も含めて、人々が皆一喜一憂している事を体感するのである。

(注2)日本酒については、「資本主義の新しい流れの萌芽」を考える上で非常に面白い会社があるので、後日紹介したい。

(注3)これじゃ楽しくない、高級車乗ってブランドものの服に身を包んで夜景の見えるマンションに住んで高いレストランで食事して、美人のモデルだかスチュワーデスだか芸能人だかでも(女性だったら、ホストだか美男のモデルだかイケメンの外人だか政界や財界の大物だかでも)はべらせないと「気が済まない」「満足出来ない」と言う場合、心に贅肉が付いている可能性が高く、黄色信号である。Matrixの「転落」まじかあるいは転落中かも知れないので気をつけた方がいい。

カネが余っている時はまあ、無理のない範囲でこう言う余暇やお遊びもよろしいかと思う。金持ちの余暇やお遊びから芸術や先端技術が生まれているし、サービス業等でも金持ちが気前良く使って初めて雇用が生まれるし洗練されたものになる。それはそれで社会的に意味はある。

ただし執着を持つと問題になる。景況感や事情が変わった際に、こう言う余分はぱっと手放せる事が重要である。実際やってみると、美人(美男)も、高層マンションも、ブランドものも、高級レストランも、悲しいかなすぐに飽きる、あるいはやり始めるときりがない事に気づくだろう。そしてこう言う余暇やお遊びは、維持のためのコストが非常に高くつく。にわか成金位で虚栄心でやると不況時に後悔する事になる。更には世間への見栄等でキャッシュフローは悪化しているにも関わらず手放せなくなってしまうと、大きな問題になる。

そして「資本主義Matrix」にはまってしまっている場合、本人は過去のコンプレックスを金と贅沢で埋めようとしている事もあり、「惨めな自分」に戻るのが嫌なので手放せなくなるのである。

経営者や幹部によっては、得てして自分のワインセラーに保管してある年代物のワインを売却する前に自分の会社の現場の部下や従業員を解雇し始めたりする。こうなると人望まで無くなる。なんたらうんたらロートシルト(こんな所にもこのファミリーが出て来るのが、金融の世界の興味深い所である)だかが作ったボルドーの年代物のワインなのか知らないが、所詮アルコール発酵葡萄ジュースの分際で、身を粉にして働く従業員や部下(やその家族)の生計より大事だと言う事は無かろう、と言った常識は、ここまで「資本主義Matrixの下方循環の病」が重傷だともはや通じない。正にダースベイダー的な怪物(FF13風に言えば「シ骸」か)になり下がってしまう事になる。

こう言う経営者ほど世間体が大好きなので建前的に役員報酬をゼロにしてみたりするが、現場の社員や投資家は非常に冷淡なと言うか生暖かい視線でこう言う実態を眺めている事になる。こう言う「元億万長者」の行く末を生暖かく見守るのは結構痛々しい(運悪くこう言う御仁の下で働いて居ると、生暖かく見守っている場合でなく、実際火の粉が飛んで来るので迷惑である。適宜回避が重要である)。

こう言う所で本当に剛胆な人物だと、私財をあっさり手放して普通の生活に戻ってゼロからやり直せる。こう言う人物はカネは無くなっても人望は無くならないので、再起し得る。こう言う人物のやる浪費は爽やかでよろしい。(アナリストが「経営者の分析」って、一体どうやるんですか?と言う事を時々聞かれるが、例えばこうやって分析する感じである)

ちなみに更に話はちょっとずれるが、レストランは一回きりの出費で維持のコストはかからないのではないかと思うかたも居るかもしれない。しかし実際はそうでもない。筆者がそうだったが、まず外食は癖になる。そして外食中心で食事していると、油、脂肪分、糖分、動物性たんぱく等をどうしても取り過ぎになる一方で、みそ汁、野菜の煮物、と言った食事が少なくなりがちなのでメタボにもなりがちである。痛風やその他成人病のリスクも高まる。結果、医療費も高く付く事になりがちである。

「高級レストランなら良い食材を使って一流のシェフが作ってるから体にも良いだろう」と思われるかたは、一度フレンチを料理の本等見ながら自宅で作ってみると良い。そんなに味の濃いものでなくても、ソース等に油やバターを相当量使っている事に気づくだろう。当のシェフだって毎日コース料理を自分が食べたいとは思わないだろう。和食にしても、コース料理だと肉、魚、揚げ物と色々出て来過ぎで頻繁に食べていると体に良いとは思えない。食に関する所は結構大事な話なので、後日細かく書くかもしれない。

とにかくまあ、虚栄心に対するコストは高く付くものである。心の贅肉を落とすだけで、相当人生全体におけるトータルコストも削減されるように思うし、心の贅肉が落ちると共に食生活も適切・簡素になると体の贅肉も付きづらくなるように思う。


(注4)こう言うパートナーが既に居るかたは、中々そう言うパートナーの貴重さ、幸せさを実感するのが日常生活では難しいかも知れないが、ぜひ感謝の気持ちを相手にたまには言葉なり、態度なりで示す事を薦める。特段高価なプレゼント等でも無く、エレガントで格好良いサプライズ等を演出出来るような才能が無くても喜んでくれる、きちんとあなたの感謝の気持ちに応えてくれるパートナーであれば、その時点であなたは(キャリアアップだの金銭的成功だのではなく)人生の真の「勝ち組」である。