2011年11月12日土曜日

○ロハス金融道・正テキスト紹介:「ザ・マネーゲーム」から脱出する法





「ザ・マネーゲーム」から脱出する法 [単行本(ソフトカバー)]


随分更新期間が空いてしまったが、良い本を見つけたので紹介。


著者はロバート・シャインフェルド氏と言い、他にも「第11番目の鍵」等の著書があるようである。本の最初には「こころのチキンスープ」の著者のジャック・キャンフィールド氏が序文を寄せている(注)。成功哲学ごっこ、ポジティブシンキングごっこだアファメーションごっこだをやって来た結果として、どうやらある一定の境地に達したと言う事のようである。「ロハス金融道」としてこう言う事が言いたかったと言う事をそのまんま書いて頂いたな、と言った内容。

多分まあ同業者からはこう言う本を紹介しても余り尊敬されないだろうし、トンデモ本認定されてもおかしくなかろうとは思う。そう言う意味では、この手の本を紹介すると言うのは筆者のキャリア人生において多少のリスクテイクはしていると言えるかも知れない。また、手に取る人生のタイミングも選ぶ本だと思う。しかしまあ、人生自然の流れに任せるのが良いと思うし、良いと思ったものは思うままに紹介させて頂こうと思う。

端的に要約すれば、この世の全ての物事は幻に過ぎず、マネーと言うのはその最たるものだ、と言うかなりぶっ飛んだ内容な訳だが、当ブログの「資本主義マトリックス」のタグに入っている内容等に理解を示されるかたは、比較的スッと入れるだろう。字も大きいし、軽い本なのでちょっと読んでみると面白いと思う。

そんな訳で、筆者の言いたい事はロバートさんに代弁して頂いたと言う事で、筆者は本業に励むのでありました、めでたしめでたし。。。最近ちょっと、ブログは一通り書きたいこと書いたかな〜と言う感じで、余り色々書こうと言う氣分でもないので、こんな感じで。


(注:当初、著者の過去作品について筆者の誤認があったため、後日訂正している。ロバート・シャインフェルド氏は「こころのチキンスープ」の共著者ではない。)

2011年8月26日金曜日

○ヱヴァンゲリヲン新劇場版が、なぜリメイク作品であるにも関わらず非常に人気があるのかについての簡単な考察と、それの金融プロフェッショナルへの含意について。

(出所:スタジオカラー)

さて、今回は雑談で、題名の内容。
日本では金曜ロードショーでヱヴァンゲリヲン「破」も放映され、高い人気を保っているようである。
Twitterで呟いた内容を多少編集してブログに掲載した次第である。


○ヱヴァンゲリヲン新劇場版が、なぜリメイク作品であるにも関わらず非常に人気があるのかについての簡単な考察。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版が人気である。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」は興行収入20億円を記録し、金曜ロードショーでは12.7%の視聴率を記録。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」は興行収入40億円を記録し、金曜ロードショーの視聴率は現状不明だがTwitterのTL上でも大量に投稿された。

元々エヴァンゲリオンは、90年代にTV放映と映画公開が為された作品であり、2000年代の上記映画と今後公開される「Q」については、(ストーリーや画像は新たに作られ変化が為されているものの)リメイク作品である。

過去のリメイク作品が、なぜこれだけの人気を誇っているのか。今回はその理由を、駄文社会学者の風呂敷文章ちっくに筆者なりにまとめてみた。

思うに、エヴァと言う「過去作品のリメイク」に対して、なぜ現在も(拝金主義等細かい批判は勿論あるものの)かなりのファンや支持があるのかと言うと、ファンは庵野秀明氏と言う「とあるヲタク」の成長を、エヴァ(とその登場人物)の描かれ方の変化を通じて見る事が出来るからと言う面があるのではないかと思う。

90sの初代エヴァの時は、自己無価値感、低い自己評価を、膨大なアニメに対する知識、精神分析や聖書等からも引用しているとみられる込み入った世界設定・伏線・謎かけ等で自尊心を補完する、ある種の脆さのようなものが作品にも出ていたように思う。言ってみれば、人類補完計画は、虚無感・無価値感補完計画、自尊心補完計画だったのではなかろうかと言う事である。

登場人物が明らかに皆アダルトチルドレンである。時間のあるかたはTsutayaでTVアニメ版のエヴァンゲリオンを1〜26話までみてみると良いかも知れない。シンジ、レイ、アスカ、ミサト、リツコと言った主要キャラクターは、ことごとく「自己無価値感」に苛まれている。その表出の仕方が各々違うだけである。例えばシンジのようにふさぎ込みがちになりつつもエヴァンゲリオンに乗っている自分は価値があると言う所に依存するようになる者もあるし、レイのように過剰な自己犠牲に繋がる者もあるし、アスカやミサトのように仕事での評価に依存・のめり込むが幾ら仕事で達成しても虚しさがなくならず壊れて行く者も居るし、リツコのように恋愛が不幸系になる者も居る、と言った具合である。これらの登場人物は、結局TV版〜90s劇場版の「初代エヴァ」では、全く救われる事のないまま、話の進展と共に、皆心身共に壊れて行くと言う流れを辿る事になった。

また、TV放送〜90sの映画の「初代エヴァ」の段階では、原作・監督の庵野氏の病み具合も進んでしまったのか、登場キャラクターだけでなく、ストーリーライン全体、作品全体としても、全くいただけない形で空中分解してしまった。せっかく途中までは緻密な伏線や設定、人物造形の描き込み等で世界を作ったのに、最後の方は完全に壊れてしまっているというか、風呂敷をたたみ切れずに煙にまいて終えてしまっている。

つまり登場人物がことごとく精神的に(あるいは物理的にも)崩壊して行き、最後には何か非常に憔悴し切ったパラレルワールドを見せられる事になった。例えばTV版の終盤における学芸祭の演劇みたいのとか、何の救いも無い上に風呂敷たたみ切れないまま巨大綾波レイなど登場した末、最後のアスカの「気持ち悪ぅ」のセリフによる90s映画版の終わりであるとか。

結局、大風呂敷を広げたは良いがたたみ切れず、何とか煙に巻いたのかなと言う、そう言う感じである。肚に落ちない、腰の据わらない終わり方だった。


それが、年月を経て、庵野秀明氏も結婚する等の変化があり、「自己無価値感やコンプレックスの埋め合わせとしての仕事」から、「適切なSelf Esteemを基礎にした肚の据わったクリエーター」への変化が見られる事がリメイク版で感じられるに至りつつあるように思われるのである。

弱々しかったシンジ君は今回のリメイク版では明らかに成長していて、物語が「シンジ君の成長物語」として肚の据わった軸のあるものになりつつある(少なくとも「破」の所までは)。ユイの幻影をみながら職場内研究者親子を食い散らかす等不健康極まりない憂さ晴らしをするゲンドウも微妙に変化ししていて、所々に不器用ながらも父親らしさを伺わせるような表現に変化している(これも「破」現在)。

こう言った作風の微妙な、しかし明らかな変化を通じて、エヴァの受け手は、庵野秀明氏の成長を感じる事が出来る面があるだろう。

つまり「リメイク前」と「リメイク後」の作者の葛藤、挫折、内観を経た成長自体、「自己無価値感とコンプレックスに悩む自我の脆弱なヲタク」が「適切なSelf esteemを持ったクリエーター」に成長していく過程自体を、「物語」として、受け手側が感じる事が出来るのである。

「リメイクの今回もまたヲタクの空中分解で終わっちゃうんじゃないか」と言う微妙な危なっかしさも孕みつつも、いやしかし作者の成長が作品に出ていて、より「骨太の軸を持った物語」と言う、「90sエヴァとは別の”パラレルワールド"」を見せてくれるのではないかと言う期待感があるのではないか。

こういった要素が重なって、リメイクにも関わらず、エヴァの人気が高いのではなかろうか、等とどこぞの駄文社会学者の風呂敷文章のような事を思い浮かんだので、雑記までに呟きであった。例によりオチも特段無いが、お付き合い頂いたかたは、ありがとうございます。


○ちなみに...ヱヴァンゲリヲンの金融プロフェッショナルへの含意。

ちなみに、「初代90sエヴァ」のような「自己無価値感、コンプレックスの埋め合わせ」で仕事してしまうパターンは、金融マンでも良く居るパターンである。

脆い自我、自己無価値感や低い自己評価を、膨大な金融知識(あるいはアナリストの場合は膨大な業界や企業に対する知識)、高いボーナス、美麗なキャリア、周囲の評価、寄って来る拝金美女蝶々と言うか蛾等で埋めようとするパターンである(これでギクッと来た同業者も幾らかあられるかも知れないが、御愁傷様である)。

あるいは運用屋だとトラックレコードの維持等で脆い自尊心を何とか保っている人も居るように思う。傍から見ていてつらそうと言うか、とげのある雰囲気と言うか、お疲れ様ですなと言う雰囲気が感じられるのでこういうのは体感的に分かる。

いずれにせよ、上記のエヴァンゲリオンで言えば、「90sのTV版〜映画版」までの時の、脆弱なヲタクの心理と似ている。「自己無価値感、低い自己評価、コンプレックス」を、カネで埋めると言うのは起業家や金融プロフェッショナルで比較的良くみられるパターンなのである。

大体、普通に特段悩みも無く満ち足りた生活をしていたら、常識的に考えて、解雇率も極めて高く、深夜まで労働は及び、人格の壊れ気味の意味不明の上司の奴隷になってまで、年収ん千万円等の収入を得る、と言った進路など普通の人間であれば選ばないであろう。何か満たされないものがあるから、こう言う生活を選ぶと言う面は(必ずと言う訳ではないが、得てして)あるように思う。マネーはこう言う心の隙間に見事に入り込み、人の精神を浸食して行くのである。

そんな訳で強引に最後を締めると、昨今の金融プロフェッショナルにおいても求められるのは、ヱヴァンゲリヲンや庵野秀明監督と同様の、「リビルド」ではなかろうかと思う。

つまり、自我の脆弱なヲタクから、適切なSelf Esteemのあるクリエーターへ。金融は虚業だと自らを嘲りながら自己無価値感や虚無感をカネや知識や経歴で埋めようとする段階から、適切なSelf Esteemを伴った金融ならではのクリエイティビティを伴ったマネーの探究と活用への昇華へ、と言う事である。

ヱヴァンゲリヲンの上記一連のありようは、我々金融プロフェッショナルに対しても重要な示唆を投げかけているのではなかろうかと思う(...って本当?)。おっしゃー電波社会学者的強引な締めくくりが出来たぞ!と自己満に浸った所で、今日はこの辺りで失礼致します。

2011年7月26日火曜日

○2ch世代の葛藤と、Twitter・FB世代における所得格差ならぬ『思考・想念格差』について


本日は、普段の無名アナリストの中年の新橋ガード下語りからは離れて、題名のお話について。(でも基本的に新橋ガード下うだうだ飲みレベルの雑談である事は添えておく。)

筆者も、ブログを使い始めて1年以上が経ち、TwitterやFBも活用して試行錯誤して何ヶ月かが経過した。今日はその中で氣付いた事について書こうと思う。断っておくと筆者はWebやITの専門家でも何でもない。そのため、素人1ユーザとしての雑感・ヨタ話程度のものである面は最初に添えておきたいし、この点ご容赦頂けると幸いである。


○2ch世代の葛藤。

題名の意図するところは、ブログ・Twitter、FB等を中心に現在ネットの起きている事は、以下に述べるような感じなのではなかろうか、と言うことである。

数年前の2ch世代に代表される雰囲気は、”匿名で言いたい放題だぜヒャッハー!”、”ネットじゃやりたい放題だぜヒャッハー!”(北斗の拳の悪役を想起してヒャッハーの辺りをイメージ頂きたい)と言ったものであったように思う。

つまり2ch等流行って居た頃は、削除されない限り匿名で言いたい放題であったし、有無を言わさず会話・スレッドに介入して、ゲリラ的に匿名で自説を述べたり、極論で煽ったりも出来、鬱憤晴らしの罵倒の類も含めて匿名でやりたい放題出来て居たのである。そして攻撃されたら、『言論の自由』辺りが防衛手段である。言論の自由があるんだから、何を発言しようが自由なんだよ、お前ら俺の話聞けよ、と言う理屈であろうか。ちなみに蛇足になるが、資本市場においては、フジテレビ・ニッポン放送案件周辺の村上ファンドやライブドアの手法等も匿名ではないが手法が2chの煽り的な感じだったように個人的には思う(「株主様の権利なんだよ、お前ら俺の話聞けよ」)。

ところが、TwitterやFBではそれが通用しなくなっている(資本市場においてもこの手の敵対的アクティビズムが通じなかった旨は前のエントリで多少触れたし、今後のエントリでも多少触れるかもしれないがそれはまたの機会に)。

Twitterは匿名でも発信可能ではあるものの、筆者の尊敬している春山昇華氏による所の”Personal Identity”が発生してきている。ブロック機能の存在により、品がない、不愉快だと判断した人間を排除する事が出来るようにもなっているし、ブロックまではしなくても、「余り失礼だと最終的にはブロックするから、紳士淑女に振舞いましょう、ほらRTで皆さんも見てますよ」と言った文脈に持って行くとこれに抗う事は中々難しいようになっているように思う。金融クラスタのTLなど眺めていても、下世話な話やシモネタで一杯ではありこれで無邪気にきゃっきゃやるのが楽しい面がある一方で、過半の人達が、匿名であっても「一線を弁えたTweet」「悪意のない冗談・娯楽の類で済む類のTweet」を自然と心がけているようにも見える。まあこれが一般的なネット上におけるマナーだろう。

FBにおいては、先ず本名が前提であり、友人にする際にフィルターがかかる。更には、友人に加えた後でやっぱりモラルがない、品がない、微妙な筋のお方だった、コミュニティの平和が乱れる等と判明した場合、先方に了解なく一方的に友人から外す事が出来るようになっている。

尚、旧来からのブログにおいても、書き込みが自由になっておらず許可制の所も増えて来ている(筆者もそうしている)。

つまり、『言論の自由』と「匿名性」を盾に言いたい放題Webで鬱憤解消をしていた層は、2chの時代からTwitterやFBの時代に移行するにつれ、当たり前の現実に直面する事になっているのではなかろうかと思われる。

つまり、言論の自由は勿論あるんだが、一方で皆に「情報の取捨選択の自由」「どんな情報や思想、価値観を持っている人と接するか接さないかを選択する自由」もあると言う事である。

また、発信する側には、「自分の思考やその結果としての発言や立ち居振る舞いによって、他人から自由意志でそういった選択をされてしまうと言う責任」があり、「自分と分相応の人しか相手をしてくれないと言う現実」があるという事でもある。

言ってみれば、TwitterやFBは、「似たもの同志」が集まる世界なのであり、TwitterやFBの普及により、言ってみればリアルの世界では当たり前のこう言った事柄に、Webにおいても我々はより明瞭に直面することになっているのではなかろうかと思う。

結果、ネットで匿名で鬱憤を晴らしていた層は、俺の話を聞いてくれなくなった、2ch等の溜まり場・吹き溜まりで通用していた煽り等も通用しなくなりつつある、と言った具合に葛藤を感じているのではなかろうかと、Twitterなど利用していて時折見られる反応など見るに付け、最近ふと思うようになった。

一方で、恐らく日常においては目立たないのかも知れないにせよ、Twitter等でじわじわと人柄等が垣間見えるにつれ「キラリと光る人」と言うのが見出される事も起きているように思う。Twitterの会計・金融クラスタ等眺めている限り、結構こういういぶし銀な良い味を出している層もまた多くみられる。

これが幾らかブログ、FB、Twitterを運営してみて筆者が感じた事である。


○所得格差よりもある意味シビアな「思想・品性・想念の格差」の進行。

こう言った事を思うにつれ、現在進行している事態は、所得格差よりもある意味シビアな「思想・品性・想念の格差」の進行なのではないかと筆者は最近思うようになった。まあ筆者の定性的な主観であるし、証明・論証出来る類の事ではない与太話ではあるけれども。

ネットで呟く言葉には、思っている事をアウトプットするのに障壁が少ない事もあるし、上述の通り人柄がにじみ出るようにも思う。特に長期間呟いているとこの事は言えるように思う。

結果として起きている事は、所得格差ならぬ”思想格差”、”品性格差”、”想念格差”と言ったもので、思想、想念、人柄の成熟度等の面で”似たもの同志”が集う場にネットがなって来ているのではないかと言う事である。

こういった状況がなぜ所得格差よりもシビアなのかと言うと、言い逃れのしようが無いからである。

所得格差であれば、「カネ持ちブルジョワジーだけで固まって、なんかずるいよな」「こんな格差社会を作った政治が経済が企業が上司が・・・」と言った具合に、カネ持ちなり世の中なり他人なりを悪役にすれば、憂さも幾分晴れる面はあろうかとも思う。

しかし、思想格差、品性格差、想念格差となるとそうはいかない。「あなたの思考や品性相応の人と接する事になっているんですよ。思考や品性はカネの有無の問題ではなく、あなたの心がけ次第ですよ。今時志さえあれば簡単に孫正義氏のような大富豪にもメッセージが送れる状況だし、愚痴や不満ばかり言って同類を引き寄せる事も出来るし、それもあなた次第なのですよ。」となってしまうと、逃げ場も言い訳のしようもないのである。

元来、TwitterやFBが普及する前から、人生あるいは世の中には「思考・品性・想念による格差」「思考・品性・想念が人生をつくる」と言う面は存在する。それは、例えばマザーテレサが以下のように見事に要約している。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから

マザーテレサ
しかしこう言った事実が、TwitterやFBによって加速している、あるいはより明瞭な形で筆者を含めた皆の目の前で進行している、と言った事のようにふと筆者の氣分的に思ったのである。まあヨタ話の類と言えばそんな感じだけれども。


○ここから先はまあ、更にヨタ話ではあるけれども・・・

ここから先は更にヨタ話の感が深まって来るので、参考にするしないは更に各人の自由と言う話になるが更に徒然に「バシャール」を紹介してみる。「バシャール」と言う未来人だか宇宙人だかと、須藤元気氏や本田健氏が対談をした本が出ているので、その中のエピソードを紹介しておく。

(注:「ロハス金融道」的には金融マンにも関わらずこういう所からも引用を引いてくる辺りが、筆者のアナリスト芸人なり運用者芸人なりとしてのキャラ的な特色・位置づけではある。真偽の程等は全く保証しないし、興味の無いかたは読み飛ばして欲しい。)

これらの対談によると、どうやら2012年と言うのは色々な意味で節目らしい。ちなみに2012年と言うのは、映画2012等でご存知のかたも居るかも知れないが、ホピ族の予言であるとか、その手の界隈の話で重要な年である。

で、何が節目かと言うと、各自が体験する世界・地球が、パラレル的に枝分かれし始める節目と言う事らしい。

つまり電車の例えで行くと、いままでは色々な目的地に行く列車も並走していたし、駅では相互の路線への乗り換えも可能であった。まあアレだ、いままでの時代は、東京から品川まで行っていたようなものだと。これが、2012年からは、ある者は新幹線で関西なり九州なりに行き、ある者は東海道線で伊豆に行き、ある者は横須賀線で逗子に行き、ある者は山手線で、ある者は空港行って海外へ、と言った具合に分化し始め、次第に相互の乗り換え・乗り入れもなされなくなる、と言った事らしい。

つまり経済的な面での格差の拡大なのか、思想面等でのコミュニティの分化固定の話なのかはよく分からないにせよ、格差や分化が2012年辺りから急速に進むよ、と言った事をバシャール君は言っている訳である(で、「ワクワクお金持ち」が商売道具でありトレードマークでもある本田氏は「わくわくする人生、自身も周囲もわくわくしている、わくわく列車に乗りましょう」と言った定番のまとめかたをしている)。

こういう話を信じる・信じないは各自の自由であるし、筆者も話の内容自体は自己啓発として適度にまっとうだとは思うもののバシャールと言う存在自体はうーんどうなんでしょうねと言う面もある。

しかし筆者がこの話を聞いた時に興味を持ったのは、「仮にこういう流れが起きる・起きているとしたら、いったいどう言った経路、状況でもって起きる・起きているのだろうか?」と言う事であった。この手の話は一歩間違うとオカルト商法の類になり得るので、安易に鵜呑みをするのもどうかとは思うが、書籍代1000円そこらで、本田健氏や須藤元気氏のようなガイドの下でこういう思考遊びが出来る事には価値がある(と筆者的には思っている)。

そしてふと、TwitterやFBの普及、と言うのが、思考・想念の面での格差、電車の目的地が分化して交差する事がなくなり始めるきっかけになり得るのかな、と言った事を感じた訳である。

この話を信じる・信じないも、参考にする・しないも自由であるが、筆者としてはこういう事が起きているのかも知れないな、どの列車(思想・コミュニティ)に乗るのかはきちっと選んでおきたいな、そういった文脈の中でTwitterやFBも活用したいものだな、等と感じている昨今であった。

と言う訳で、今日もオチもなく終了・・・。

(書籍紹介)
バシャール本は下記。未来予想が当たるかどうかと言う意味では、Amazonのレビュー等見ると過去外して来た所も結構あるようなので(まあ元々がアナリスト稼業の同業者的には同情する・爆)、娯楽程度の気持ちで読むと中々面白い。本田健氏のほうは、比較的無難にまとめた感じであり、須藤元気氏の方は氏の独特の個性やツイストが入っており、氏の笑いのツボにはまれる向きは面白いと思う。


2011年7月13日水曜日

アナリストJobの変遷その5:アクティビストファンド台頭時の末端アナリストの思い出など徒然に。

さて、前回で、中小型株ブーム、アクティビストブームの到来についての時代背景や一般的情報を幾らか書いたように思う。今回は、そう言った状況下でのアナリストJobがどう言ったものだったのか、筆者の経験等も交えながら、差し支えない範囲でぼちぼち呟いてみたいと思う。


○アクティビストファンドの下っ端の仕事内容など。

筆者は短期間であるが、いわゆるアクティビスト的な投資戦略のもとでリサーチの仕事をしていた事がある。まずはこの頃の思い出を幾らか書こうと思う。

さて、実際の所は「アクティビスト」だとイメージが悪いし事業会社が驚いてしまう。このため「リレーショナルインヴェスティング」等とちょっとインテリな響きで柔らかめな印象を受ける呼称を実際には使っていた。この手の戦略は、詰まる所は事業会社の経営陣に「こうしたら良いんじゃないですか」的な提案を行う投資戦略で、比較的少数の銘柄に、大量保有報告に出る位の集中投資を行い、事業会社側に提案を行い企業価値を上げる事で超過リターンを得ましょうと、まあそう言ったコンセプトのファンドである。

筆者がこの手の戦略に関わっていたのはアクティビストファンド初期〜序盤戦だった上、会社の方針として敵対的に過ぎるのは日本の風土に合わないからよそうと言った面もあった(現在も日本で生き残っている数少ないアクティビストファンドは皆この点踏まえたものになっているので、当時やや迫力には欠ける面もあったのだが、結果としては正しかったと思う)。

このため、筆者が関わっていたのは込み入ったプロキシファイトだの大規模な業界再編だのではなく、活動内容は比較的プリミティブなものであった。その点踏まえて以下の文章は読んで頂ければ幸いである。


当時下っ端アクティビストファンドアナリストの筆者がやっていた事はこんな感じ・・・。

当時下っ端アナリストの筆者のやっていた事はこんな感じだ。

まずは時価総額でスクリーニング。以前書いた通り、ファンドの運用額や経営改善の提案が出来得る規模感等から適切なサイズの会社を投資ユニバースとして列挙する。

その中から、当時お決まりだった「キャッシュリッチ」銘柄を抽出する。理想としては、本業では比較的強いブランドなりビジネスフランチャイズなりを持っていて損益計算書側ではそんなに問題がないのに、バランスシートにキャッシュが溜まっているとか、無駄に投資有価証券ばっかり保有しているとか、財テクやって失敗したとかでキャッシュの使い道に問題があるから株価が低迷しているとか、そう言った会社を探す事である。

あるいは、キャッシュリッチの逆で、負債が多すぎて倒産リスクが高いせいでエクイティリスクプレミアムが高すぎる会社にEquityを注入すれば倒産リスク後退で株主価値が上がるかどうかとか言う視点もあったように思う。その他、過去のビジネスの失敗で繰越損失があってしばらく税金払わなくて良い会社とか、利益剰余金がマイナスで配当払えないけど今後払えるようになるんじゃないかとかそう言った会社に注目する視点、言ってみればややディストレスト投資的なアプローチもあったように思う。

言ってみればまあ、一般のセルサイド・バイサイドがPLの業績予想による株価変動を中心に手掛けるのに対して、アクティビストの場合主にバランスシートの観点から会社を見て、付属的にPLを見て行く訳である。


○なぜアクティビストはバランスシートに注目していたのか。

なぜアクティビストはバランスシートに注目していたのかと言うと、理由は簡単で、バランスシートの改善を促す方が、PL改善を促すよりも金融屋にとっては簡単だからである。

金融屋が高々発行済株式総数の5%だの10%だの保有した程度で、パブリックな情報からの分析で、事業会社のPLを我々の卓越した能力だかMECEな提案だかで改善してやる等と言うのは金融マン(あるいはコンサル等)の傲慢である。実際にはこれを外部者が、眼に見えて株価に効く形でやるのは中々難しい。時間もかかる。事業は事業会社の内部の人間の方が当たり前だが良く分かっている。金融屋がやれるPL改善提案など、せいぜい余剰人員のリストラだの言った話がせいぜいである。

一方で財務面・バランスシートについては、当時の(あるいは今も一部の会社はそうかも知れないが)日本企業はまだ資本効率だとか、資本コストだとか、株主資本コストを上回るROEを出す事の重要性とか、そういう概念に基づいた効率的な運営を行っていない面も強かった。コーポレートファイナンスの話は一応金融マンの登場する余地の充分ある分野でもある。なので、主に金融屋の活躍の場である財務面・バランスシートの調達運用の観点から何か提案が出来ないかと言った発想がなされていたのである。

また、過小資本気味の会社(負債過剰、利益剰余金のマイナス、繰越損失)等の改善局面にBetするのは、株式をオプションと考えた時、ストライクプライス近辺(ストライクプライス=実質純資産0の時、実質債務超過するかしないかの境目と考えると分かり易い)のコールオプションをロングしてポジティブガンマベットするのに似ていたかも知れない。損失は最大で株券が紙くずになるまでであり投資額に限定される。一方で会社の復活/回復局面では(繰越損失がある場合)税金も払わなくて良いので株主の貰いが急速に改善する。また(過剰負債/過少資本等の場合)例えば第三者割り当てでエクイティ注入をすれば、希薄化のマイナス効果よりも倒産リスク後退によるエクイティリスクプレミアム急低下のプラス効果の方が大きくなる場合が時と状況によりあり、この場合もりもりと株主価値が改善する訳である。言ってみればモジリアーニミラーの定理の実務応用編である。つまりこう言ったディストレスト的投資アイデアにせよ、金融屋的な発想で取り組めるものだったのである。

まあこう言った所が、単純に要約すると当時のアクティビストの視点であった。


○話を当時の筆者のアナリストJobに戻すと・・・。

話を当時の筆者のアナリストJobに戻すと、ヤングな下っ端であった筆者はこう言った会社(主に小型~中型株位まで)をスクリーニングして、先ずは普通の取材の形でIRや財務担当役員位までにヒアリングして、DCF等のValuationを作り、上にパスするまでが仕事であった。イキナリ偉い人間が物々しく出向くより、最初の所では若造が可愛らしく「教えてください♪」的に取材する方が、話も引き出し易いし色々な意味で都合が良かったのである。

でもって、取材先では茶でも頂きながら事業内容や業界環境、財務面の議論等の話をIRや財務担当役員と行う。株主資本はタダでなくて資本コストがあるという事やROEの重要性についてどう思うか。不要なキャッシュは株主に返す事、休眠資産や不要な投資有価証券や不採算事業部門などの処分と言った考え方についてどう思うか。売上利益やその成長と言ったPLのマネジメントだけでなくバランスシートのマネジメントも株主価値を考える上で重要だと思うがどう考えるか、と言った事等を、MBAのファイナンス経典、お経さながらに説明しては反応を伺ってみる訳である。今考えると20代の若造にこんな事根掘り葉掘り聞かれる財務やIRは大変だなあと思うが、上場している限りこれはまあ仕方ない。

これで、IRや財務が「いや、うちはそういうのはお断りなんで」と言った様子であれば、他を当たる事になる。一方で、ちょうどIRや財務が興味を示していて、「いやーそろそろ株式市場の声をちゃんと聞くとか、株式市場にIRの声を適切に届けるとか、資産効率のマネジメントとか、大事だと思うんですよねえ。でも中々社内で聞いてくれる人がねえ・・・」と言った類いの対応であればチャンスである。言ってみればアクティビストファンドが財務・IRの声の代理になり、事業会社の財務IRのサポートを得ながら経営陣の説得を試みる事がし易いからである。こういう場合はある程度きちんとした産業分析や同業他社比較等普通のアナリスト的分析もして、一方でDCF等のValuationを、バランスシート改善せず、改善した場合などシナリオ別に作ってみて、割安感が見られればファンドの上司に回すのである。そしてマネジメントとの面談のセットアップやプレゼン資料の作成にかかる。

でもってトップ会談をやって、建設的な議論が出来れば投資を開始する(注)。現在残っているアクティビストファンドの投資プロセスがどうなっているかについては、筆者はその手の世界を離れて久しいので良く分からないが、当時に筆者が関わって居たファンドにおいては、こんな所が一般的な投資プロセスだったように思う。

(注:場合によっては多少株を保有してから議論のテーブルをセットする事もあったようにも思うが、事業会社側の心情も考えると議論してからが理想であった。プリンシパルの株主がエージェントの経営陣に意見するのは資本主義のルール上は勿論権利ではあるが、市場で株を買って突然「俺様株持ってんだ、話訊けよ」と言うのは、日本の社会においては特に「慇懃無礼」と取られがちであったし今もそうだと思う。)

但し経営陣との議論と言っても、増配しますとか自己株買いやりますとか余剰キャッシュ何とかしたいとかの言質を取る訳ではない。これをやったらインサイダー取引になってしまい、投資が出来なくなるので逆に困ってしまう。あくまで取材として、その延長で経営についての考え方や、財務についての考え方を聞く必要があった。この点は注意の必要な点であった(注)。

(注:ただ、どう言った情報をもってインサイダー取引に該当するかと言うのはとても曖昧で、慎重さが求められる所であった。日本の証取法では、インサイダー情報とはこれとあれを指します、それ以外は聞いてOKですときれいに明示されているのではない。「その他条項」と言って、有体に言えば「何か株価にとって大事そうだったらインサイダー適用され得る」的な面がある。この「その他」が、政治状況等によって、例えば小泉政権下のような緩く解釈されていた時期もあったり、村上ファンドの村上氏逮捕に代表されるように厳格に適用されたりといった具合なのである。そういう意味では、六本木ヒルズのオフィス棟・住居等を舞台に村上氏が新興経営者等…”六本人会”等と当時呼ばれた…と頻繁に会合して”各種活動”を展開していた事については、それが品が宜しかったかと言えばグレーゾーンだろうと言う評判は逮捕前の当時から同業者内ではあったにせよ、村上ファンドの村上代表には、同業者としては同情する面もある。)


○投資後のフォローアップはこんな感じだったかな・・・。

でもって、投資した後は、ニュースフローや決算や株価のフォローをしたり、足もとフォローアップ的な普通のアナリストの取材をしたりと言った一般的なアナリストの仕事に加えて、IRのやり方の改善提案であるとか、財務関係の勉強会や交流の場を作ったりであるとか、まあそういう活動を若手としてサポートする事になった。

筆者のような下っ端は、提案のためのプレゼン資料作り下データ作りの手伝いであるとか、パワーポイントの体裁整えだとか、更には印刷屋にセミナー用のパワポのハンドアウトを発注するだとか、この手の勉強会の当日の裏方や受付などやったりもした。これはバイサイドのアナリストのやる仕事としては多分珍しい類いの事で、当時は面食らった面もあった。

しかし若いうちにこう言う下仕事をきちんとやっておいて良かったように今考えると思う。セルサイドのぴしっと整ったパワポのプレゼンだとか、きちんと段取りの出来たセミナー等に対してちゃんと尊敬・感謝出来る程度には社会人としての常識が身に付いたように思う(一方でプレゼン資料のフォントの揺れとかレイアウトのちょっとしたずれ等にも敏感になり、ああこの作業者ルーラー使ってないなとかフォントをArialで統一してないなとかにも目が行くようになる訳だが)。また、調査やエクセルいじり以外の例えば”ハンドアウトの手配”、”印刷屋の手配”、”会の段取り”等の「いわゆる社会人的な普通の下仕事」も苦手なりに一応やっておいたのは、きちんと機能する社会人になると言う観点では結構良かったと思っている。

その他後日に例えばある程度ファンド側の意向に添うような事、例えば自己株買いや増配等発表してくれた際には御礼の手紙を書いたりもした。当たり前だがアウトサイダーとしてコンプラ遵守のもとで投資をしており、提案と言ってもあくまで取材の延長で議論の題材としてプレゼン等も搭載すると言う話である。このため別に事業会社側はファンド側の提案を守る必要等もなかった。結果として、実際ちゃんとこう言う事をやってくれるのかどうかは、アクティビストと言ってもまともな運営がなされているファンドであれば開示が出てからでないと分からなかったのである。株主還元改善の類いのプレスリリースが出ると嬉しかった事を記憶している。

株主総会についても普通の運用であれば殆ど参加しないが、この手の戦略の際は特段株主提案等行っていなくても筆者もお使いで総会に行って、投資先の財務に挨拶をして、総会の状況を上司に報告したりした。後はファンドの顧客への説明資料の作成等等細かい仕事が幾らかあった。

投資後の運用プロセスについては、投資先の株価が十分上がったり、逆にファンド側の改善提案をいつまで経ってもちゃんと聞いてくれないとかPL側・ビジネスモデルや事業環境そのものが全く想定外に悪化してしまう等あればExit。強制ロスカットポイント等はポジションサイズも非常に大きい事から設けない。筆者のような若手は上記のような下作業やお使いJobが中心で、売買判断にはノータッチであった。まあこんな感じであった。


○これらは、アクティビストファンドの「牧歌的」時代・・・。

さて、徒然にオチもなく当時の事を呟いてみたが、筆者がこの手の運用戦略に関わって居た頃は、上記の通りまだ比較的牧歌的な段階であったし、上記を満たすような投資対象も比較的豊富にあり、パフォーマンスも付いて来ていた頃であった。

またアクティビストのファンドの上層部には、経営陣にプレゼンしたり議論したりしてもサマになる感じの投資銀行部門やコンサル経験者等が概ね控えており、何とはなしに見栄えがしたものである。勉強会やセミナーを催しても、一般バイサイドとは異なりと言うかバイサイドにしては珍しくと言うか、何となしに当時華があったように思う。

更にはこう言ったファンドはその性質から、3年間等の解約ロックアップが付いた資金を主に受託していた。このため運用会社でしばしば散見される、中長期投資を謡って居ながら設定解約は3ヶ月毎なので結局近視眼的対応をせざるを得ないと言ったALM上の問題も生じて居なかった。

新聞・メディアでも日本のコーポレートガバナンスの改善と言った切り口でこの手のファンドが紹介されてもいた。事業会社と議論をしながら株主価値について考え、向上を目指すという面で資本主義・株式投資のダイナミズムを体感出来る投資戦略でもあった。

物事は全て上手く行くかに見えた。


○しかし・・・。

しかし祇園精舎のカネの声、諸行無常のこの業界、一時は多数のファンドや証券会社のプロップが試みていたこの手の投資戦略も、ほんの数年後には厳しい時を迎える事になる。だいぶ長くなってしまったので、この辺はまた次回にでも。

2011年6月25日土曜日

シンガポール体験メモ:昭南神社の70年前と今。

(1942年の昭南神社の鳥居。出所:シンガポール都市論 勉誠出版)
(1943年の昭南神社の建物。出所:シンガポール都市論 勉誠出版)

さて、今日は上記の昭南神社に探検して、お祈りをする事にしていた日であった。

(注:筆者は無宗教であり、かつ思想的に左右どちらでも無く、この辺りの点については完全に中立である事は付記しておく。過去の歴史と言うものがあり、70年前にシンガポールで戦争捕虜等を動員して神社を作ったと言う事実があり、そう言った時代の大きな渦の中で日本人もマレー人やシンガポール人もこの地で多数命を落としたと言う事実がある。そう言った事に対して只安らかに、と祈るのである。この点確認しておきたい。)

昭南神社とは、1942年、太平洋戦争において日本軍がシンガポールを陥落させた後に建設された、天照大神を祭神とされていた神社である。場所は、マクリッチ貯水池の西端の北側の小高い所に建設された。伊勢神宮の内宮を流れる五十鈴川を想起させる景観であった事からこの地が選ばれた、と参考書籍にはある(注1)。筆者の推理では、この場所の北に小高い山のような場所(現在はHSBCのスポンサーで景観の良い橋がかかっている)があり、南側に水場があり、池の水に抱かれるような地形で北山南水の風水的にも良い場所と判断された面もあるのではなかろうかと思う。

さて、先ずはMacRitchie Reservoirの普通の散歩コースをゆく。雨上がりで多少ぬかるんだが、気持ちよかった。


さて、これが昭南神社に向かう道の入口の目印となる、「二つの大きな置き石」である。場所の詳細を書こうと思ったのだが、止めておこうと思う。「MacRitchie Reservoirの散歩道のどこか」とだけ書いておこうと思う。

伏せておく理由は、一つには思ったよりも道がちゃんと無く、ヘタをしたら本当に迷って出られなくなったり変な植物や生物でケガしたりしてもおかしくない感じがしたので一般には薦められないからと言う点。もう一点は、やはり経緯が経緯と言うか、余り観光客が大挙して気軽に来るような場所ではないと感じたからである。

最初のうちは、他のウェブサイトにあるように、「道無き道」を進む事になる。比較的容易に進める。
段々こんな感じで倒木等増えて来て、行きづらくなる。
最初のうちは、こう言った目印があるのでこれに沿って進めば良い。
しかし、他のWebサイトに書いてあったよりずっと進みづらかった。
倒木等で完全に道が遮断されてしまっている場所があり、迂回して遠回りしているうちにどこが道なのか分からなくなってしまい、「道なき道」どころか、「本当にただのジャングル」の中を、iPhoneの地図を頼りに、推定される神社があった場所をチェックしながら進む事になる。30−40分位歩いていて、完全に迷ってしまい、道なぞ何もない中を分け入って進む感じになってしまった。ジーンズに長袖、動き易い靴で水位は持って来ていたが、万能ナイフ等サバイバルグッズは何も持って来ていなかった。うわー困った。なんてこった。

しかし幸運が。遠くから声が聞こえる。うおーついに筆者も日本軍兵士の亡霊の方々の声とか聞こえるようになったか(冷汗)等と思ったら、数人で探検に来て居たシンガポール人であった。

彼らはジャックナイフ等持って来ていたが、昭南神社の詳細の場所を知らなかったようである。なので昭南神社がマクリッチ貯水池の西端の北側の小高い丘にあると言う事を知らなかったのでその旨彼らに教えて、iPhoneで地図を見せてこちらに向かえば良いと思う、と伝えたら、彼らにも喜んで貰えた。場所は知っていたが装備が無かった筆者と、装備があったが場所を知らないシンガポール人が出会うとは何と言う幸運。神聖な場所ではこう言う幸運がふわっと起きたりするのが不思議である。宇宙と、もしかしたら居たかも知れない日本人の霊魂にも感謝である。

マジこう言う場所を進んで行く事になってしまった。他のWebサイトだと、「何か道がないなりに踏み固められた道みたいなのがあって、時折見える目印に沿って40−50分歩けばサクッと到着する」みたいなニュアンスで書いてあったような氣もするのだが、実際にはそうは行かなかった。恐らくこの何年かの間で更に倒木等の増加で道が塞がれてしまったのだろうと思う。
そして最初の写真で紹介した、神社の鳥居があったと思われる近所の湖のほとりに到着。今やうっそうとした密林である。これが70年の年月の経過と言うものなのだろう。当時の影も形もない。
遂に最初の石段を発見。感慨深い。
これが70年後の昭南神社跡である。何と言うか、ラピュタの遺跡でも訪問しているような不思議な氣分になった。祇園精舎の鐘の声が聞こえて来る感じだ。諸行無常である。そう言えば、位置関係の確認も出来た。以前に「これは橋の跡か?」とTwitterで紹介した、湖の上のコンクリートの基礎のようなものは、やはり入口階段との位置関係等からして違うのではないかと思う。

これが手水舎の傍にあった、柱の基礎?か何かの跡。
これが手水舎の跡。70年前、ここで手を清めて参拝する日本人が居たのである。何と言うか、本当に不思議な氣持ちになった。
石垣である。正に諸行無常である。
石段は続く。
70年後の昭南神社跡は、蔦の生い茂る密林である。

この辺が、位置関係的に本殿等があったと思われる場所。建物は戦争終結時に日本軍の手により爆破され、現在残っているのは石段や手水舎の跡等だけである。時代の大きな渦の中で命を落とした多くの人々の事等想いながら、小さく手を合わせて祈りを捧げた。只安らかに。

帰り道は行きよりは楽であったが、ぬかるみで靴が泥だらけになるわで、中々大変であった。元の二つ置き石があるポイントまで戻れた際に、出会ったシンガポール人達と握手をして帰宅の途についた。歴史を実地体験したひと時であった。

最後に、今日のマイベストフォト。この光の具合など、勿論一切照明など使っていない。光に照らされる四葉のクローバーのような形の葉が、一隅を照らすように、ささやかな幸運を祝福するようにそこにあったのが美しかった。何度来てもこう言った違う表情を見せるのが、自然の素晴らしい所である。

今はシンガポール人と日本人が昭南神社跡を一緒に探検して握手出来る時代になった。この平和を大切にしたいものである。多民族が平和に住める環境があってこそ、筆者のようなガイジンが、シンガポールで相場の仕事が出来るのである。色々な人や事のお陰様でもって、相場の仕事をしているのだと言う事を再確認したい。


(注1)出所は以下。シンガポールに住んでいる等でないと中々興味を持って読めないかも知れないが、歴史、経済、教育制度など色々なトピックから学者の趣味的な分析や解説が為されており、シンガポールに興味があるかたにとっては中々楽しめるので紹介しておく。

2011年6月24日金曜日

アナリストJobの変遷その4:バリュエーション至上主義から中小型株ブーム、アクティビストブーム等によるヘッジファンドの台頭へ。

さて、今までの所で、DCFによる企業価値評価の問題点を肴にしながら、大量にバイサイドアナリストを抱えた大手ロングオンリーがどのようにして退潮して行き得るのかについて雑多に書いていったように思う。

これで次の議論を進める準備が整ったので、次は題名の通り。バリュエーション至上主義から、中小型株ブーム、アクティビストブーム、またこれらの運用戦略を行う器となったヘッジファンドの台頭と言ったトピックである。

90年代の終盤に黎明期を迎え、2000年代の前半〜中頃までにかけて大手機関投資家が煮詰まり感を見せる中で台頭し、アナリスト人材の受け皿にもなったのが、中小型株ブーム、アクティビストブーム(後述するがこれも広義では中小型株ブームの一つと見なせる)であり、これらの運用スタイルを機動的に行う事が出来たヘッジファンドである(アクティビストファンドも成功報酬等のフィー体系等考えるとヘッジファンドの一つと考えて良いと思う)。今回からはこれらのトピックについて徒然に書いて行こうと思う。

さて、元々は中小型株と言うのは、位置づけとしてマイナーな立場にあった。
理由としては、兆円単位の資金を運用する大手の機関投資家では、時価総額が数百億円あるいはそれ以下しかないような銘柄を買う事は出来なかったからである。このため、アナリストが中小型株まで調べるニーズと言うのは、年金基金からの受託を中心としたロングオンリーの運用では余り無かったのである。

この点について理解するために、簡単な例を挙げて説明する。
例として、主に年金基金等から受託した1兆円の日本株ファンドを運用する事を考えてみる。
実際には等金額でポートフォリオを組むと言う事はないのだが、ここでは話の単純化のために、1兆円を等金額で200銘柄に分散したポートフォリオを組むとする。この場合、1銘柄につき50億円の株式を買い付けないといけない事が分かる。

ここで投資先である上場企業側からこの事について考えてみる。時価総額が100億円の会社を50億円買ったら、過半保有する事になってしまう。議決権の過半を持ったらそれは会社を経営すると言う事になるし、売却しようと思ってもマーケットインパクトをかけずに短期間で売却するのは先ず無理になる。純粋なポートフォリオ運用でこれは非現実的である。半年とか1年とかの単位で売買出来ないと困る訳であるし、そう言う意味で経営にまでコミットしなければならない状況と言うのも困る訳である。

時価総額が1000億円の会社でも50億円買えば発行済み株式数の5%を保有する事になり、大量保有報告の義務が発生する。世間に自らのカードの手の内を晒す事になってしまうので、相当自信がある時で無い限りはこれは避けたい。

そんなこんなの事情を考えると、いわゆる大手のロングオンリーの機関投資家の最低投資金額の目安は(運用資産額や運用スタイル、運用会社によって多少の違いはあっただろうが)概ね1000億円以上、と言った所が標準だったのである。つまりバイサイドアナリストの調査ユニバースも時価総額1000億円以上と言うのが普通であった。実際には時価総額2000-3000億円程度でも「サイズとしては小さい」「若手に調べさせておこうか」と言う扱いだったように思う。

また、ベンチマークをTopixとして、これにアウトパフォームすると言ったゴール設定のファンドがロングオンリーでは過半であると言う事情もある。つまり、Topixで上位の比率を占めている、銀行、自動車、電機等のセクターで主要な部分を占める銘柄においていかに上手くやるかと言うのが、対Topixでの敗者のゲームをやらないといけない大手ロングオンリーの宿命でもある。

そう言う事もあるので、主にはトヨタにキャノンにソニーに新日鉄に花王にファナックに、と言った顔ぶれを調べるのが大手ロングオンリーの仕事であり、大手バイサイドのアナリストの仕事であり、そう言ったバイサイドにレポートを書いたり売買手数料を貰ったりする証券会社の仕事でもあった、と言って良いであろう。

そんな訳で、元々は中小型株の調査についてはマイナーな位置づけであり、せいぜい株式分析を学ぶための題材として手頃なサイズの中小型株を新卒の若手に調べさせて、OJTの研修代わりにする、と言った位置づけだったのである。

これは運用会社だけでなくセルサイドでも同様であった。ロングオンリーの運用会社側で中小型株調査のニーズが無かったと言う事は、運用会社にサービスを提供して手数料を稼ぐ側であるセルサイドの証券会社側でもニーズは余り無かったと言う事である。セルサイドアナリストにおいても中小型株と言うのはマイナーな位置づけで、地位の高いものでは無かったのである(ちなみに、中小型株ブームの中で一時期中小型株アナリストの地位は高まったが、今は再度地位が下がって元に戻ったように思う。あるいは売買手数料等の低下に伴い、証券会社側で中小型株のアナリストにリソースを割ける余裕が無くなっているとも言える)。



しかし、上記のような状況「だからこそ」、中小型株に注目する人々が出て来た。

証券会社も大手機関投資家も調べていないと言う事は、そこを調べればアルファが取れるのではなかろうか。市場に織り込まれていない情報があるのではなかろうか。割安に放置されたままの優良企業が沢山あるのではなかろうか。また、中小型株アノマリー(長期で見れば大型株より中小型株の方がリスク調整後でもリターンが良いと言うファイナンスの研究)も狙えるのではないか。ここで稼ぐ事が出来るのではないか。ヘッジファンドとして小さめの資金で機動的に動けば、上述の大手機関投資家のような問題も少なくて済むだろう。

こう言った発想で中小型株に取り組むヘッジファンドが出て来たのである。狭い世間過ぎるので実名は余り挙げないでおくが、ニュース等でも紹介された一般的な情報から有名な所では、100億円部長を輩出したT投資顧問等は、一般のかたでも聞いた事のある所と思う。

また、当時アクティビストファンドをやりたかった人間、例えば村上ファンドの村上氏等にとっては、中小型株の方が好都合であった。

つまりトヨタだのNTTだのに経営改善を促せる程の株を持とうと思ったら、単位が1銘柄で数千億円とか1兆円のオーダーになってしまう。独立して最初にファンドを始める時のサイズは、数十億円〜良くても数百億円位のサイズである。

そう言った限られた資金で、分散効果がある程度効いて来る最低でも10銘柄位には分散投資して(ものの研究では、確か15-20銘柄程度でポートフォリオ分散効果の8割がたは実現出来、余り銘柄を分散し過ぎるとメンテの手間等ばかりかかるので良くない、と言った調査がある)、かつ経営陣に経営改善を促せる程度の発行済株式総数に対する比率を保有しようとなると、中小型株がターゲットになるのである。時価総額で例えば300億円〜大きくて500億円以下位の銘柄で、1銘柄辺り発行済の5-20%の間位で10-30億円位の保有で、10銘柄保有して200-300億円程度のAUM(受託資産)を運用する、この位のイメージ感である。

更には、上記の通り証券会社のリサーチも入っておらず、IRや株主対応、財務政策等も上場企業としてはだいぶ素朴過ぎるような会社、改善余地のある会社が中小型株の分野には多数あった点も好都合であった。村上ファンドが当初昭栄等の銘柄でアクティビスト活動を行って居たのにはこう言った背景がある訳である。

時期的には、1990年代の後半位が、上記のような流れが起きる「黎明期」であった。実際には運用金額も小さく、知名度もなく、「こう言う分野をやればリターンが取れるんじゃないかな」と言った思いつき〜少額で始めてみた、と言う段階である。

そして2000年代に入り、大手ロングオンリー等がITバブルの崩壊、年金基金の代行返上に伴う大型株の集中売りや委託運用解約等に苦しむ一方で、日銀は大規模な金融緩和を継続し、世間にマネーが大量に供給される中で、上述したヘッジファンドやアクティビストファンドが台頭する舞台が整えられたのである。

どう言う事かと言えば、大手ロングオンリーが没落していく中で機動的に動けるヘッジファンドや、日本の株式持ち合い構造等で立ち後れたコーポレートガバナンスを改善する事でロングオンリーでは取れないリターンを取ってみせる!等と言うマーケティングをするアクティビストファンドに投資しようと言う人間が出て来る状況が整って行ったと言う事である。また日銀のゼロ金利政策に代表される強烈な金融緩和の継続が、後に中小型株と言ったマネー資本主義の「末しょう神経」「毛細血管」にまでマネーが大量に行き届く下地を作ったと言う事である。

村上ファンドも、ホリエモンも、100億円部長も、マクロ的な視点で見ればこう言った背景の中で出て来る事になったと言う訳である。

そして上記のような状況変化は、筆者のような無名の末席アナリストの雇用環境にも確実に影響して、変化をもたらした。

筆者の体験談等も含めた詳細の話は、またの機会にでも。

2011年6月18日土曜日

やば、ちょっと期待しちゃうかも:ファイナルファンタジー13-2

(出所:スクウェアエニックス)

今日は閑話休題で、題名の件。

E3でファイナルファンタジー13-2の試遊、新しいトレーラーの公開等があったようだ。
その中で、以下のインタビュー記事が目に留まった。


日本語訳しても良いのだが面倒臭いので割愛するとして、ポイントとしては、「スクエニ側がFF13の問題点を自覚・認識しており、それをことごとく改善する意思が見られる」と言う点が注目であった。

下記のエントリで筆者も指摘している、「一本道過ぎ」「町の中での探索とか、笑いとか閑話休題的エピソードで物語に緩急を付けるとかキャラの描き込みをする、と言った要素が不足」「強引で陳腐臭い回想ストーリーを重視し過ぎで”ユーザの視点”を考慮していない」等のユーザ側の感じている問題を、概ね上記インタビュー記事ではスクエニ側として認識しており改善している旨が書かれていたように思う。

ファイナルファンタジー13とゲーム業界の今後


しかし気になるのが、この幹部達が、ちゃんと神話論とかシナリオライティングをきっちり分かってゲームシステムやシナリオを考えているのかどうかである。単にユーザの声に右往左往しているだけにも見える。そう言う事では高品質の物語は作れない。ハリウッドなんかでは、ちゃんと体系的にシナリオの善し悪しを査定出来るような形で神話論が整理されている。例えば以下の書籍を参照。

こういった体系に則って、シナリオを添削する事がハリウッドでは為されている訳である。筆者が気になるのは、スクエニが、ちゃんとシステムとして、こういった学問分野まで確立されている事を活用して、「シナリオ・ストーリーをふるいにかけて、吟味して、優良な内容のゲームを安定的に作れる体制」が構築されているのか否かと言う点である。

FF10以降の作品を見ると、FF12に関してはシナリオライターが降板したり色々あったようだが話の内容が尻切れトンボの感があったし、FF13を見るとあれはハリウッド映画並みの予算をかけて作るに耐えるような品質の脚本やシナリオでは全くなかった(心情描写等も幼稚で、厨二の世迷い言みたいなクオリティであった)。

思うに、恐らく一部の上層部・プロデューサーの属人依存だったり、上層部が作ったつまらない品質のストーリーをきちんと社内で却下出来るようなクオリティチェックの体制が確立されていないのではないか、短期業績を作るために発売日ありきで運営しているのではないか、と言う面が否めない訳である。坂口博信氏が直接関与していた頃のスクウェアは上場企業ではなかったので発売日等も延期も辞さずで、かつ坂口氏の矜持と属人的センスでもって納得が行くまで作り込みが為され、名作が生産されていたのであろう。これは坂口氏がスクエニと距離を取るのとファイナルファンタジーシリーズの質が劣化するのは概ね時期が一致している事から何となしに推測できる。

そして、氏が去った後も企業体として品質を維持向上する手だてがなされないまま属人依存が継続していて、シナリオや音楽制作に関与していた主要メンバーが次々スクエニを退職している事を考えると、スクエニの人材レベルが劣化しているために良い作品が出ない、と言った状況になっているのではないか。こう言った懸念を外部から見ると抱いてしまうのである。

ファイナルファンタジー13-2は、こういった懸念を払拭出来るかどうかの試金石となる作品のように思う。これで払拭出来ないと、ヴェルサス等その後の作品の売れ行きにも影響が出るだろう。こう言う観点から注目したいと思う。

2011年6月10日金曜日

○アナリストJobの変遷 その3 DCFの限界について続き 〜限界リターンの逓減、縦割り大規模運用会社の問題点等徒然に〜

さて、たまにはアレだ、真面目な話を更新しよう。
今回は、題名の件について。

前回で、DCF至上主義の終焉と、その背景としてDCFには実務上の問題がある事、特に「変数が多過ぎる」事についての話を書いた。今回はこれの続きである。そうは言っても、基本的にDCFの問題点とは「変数が多過ぎる」と言う事に尽きると筆者は考えて居る。前回述べた「DCFは説明のツールとしては良いがリターンを打ち抜くツールとしてはファジーだ」と言った事もこれに派生して導かれる結論であるし、今回これから述べるのはそれから派生的に生じて来る問題である。


2、「作業の投入量に対して、得られるリターンが見合わない」と言った状況になりがち。

ああ、殊勝にも仕事の外でパワポなどいぢってしまった 汗。
さて、まずはスライドで事の概略を示しておく。これを踏まえて以下の説明を続けたい。

「変数が多い」ので、DCFを真面目に詰めようとなると、時間や人手(しかもソコソコ人件費のかかる専門職の人手)がかかりがちである。その一方で、前回述べた通り、「DCFは説明のツールとしては良いがリターンを打ち抜くツールとしてはファジー」なので、時間や人件費等の資源を投入する割に相場から得られる超過リターンは少ない。こう言った事になりがちなのである。この点については、筆者が以前働いて居た、外資系グローバルバイサイドでの経験を具体例として述べておきたい。

筆者が最初に入った外資系グローバル運用会社では、壮大な実験が行われていた。グローバルに100名以上のセクターアナリストを配置して、DCFに類似のキャッシュフロー予測を現在割引価値に引き直す類いの社内オリジナルの財務モデルを、グローバルに全く同一のテンプレートで作成させ、ここから得られた数値をグローバルに比較して、グローバルに割高割安を比較して、そこから超過リターンを得る、と言った試みが為されていた。また、このDCF類似のキャッシュフロー予測のモデル開発のために、クオンツやエコノミストの類いまで配置されていた。

アナリストは、前回述べたようなファイナンスの専門知識が必要である。特にのれんの処理とかリース会計回りとか退職給付債務をどうするかとか細かい所までキチンとやって、更には担当業種に対する一定以上の知識水準があり、取材やレポート書きもきちんと出来ると言う水準を求めるとなると、応分にお金を払って雇わないといけない。更にはグローバルに英語でやり取りの出来る必要もあるので人件費も一段上がる。そんな訳で、一流MBAやセルサイドから相当の人件費を払って100名以上リサーチ人員を配置していた。また、財務モデルの細かい所まで詰めるために、新卒のジュニアアナリストまで上司に付けていた(これの一員として筆者は新卒でこのチームに加わった訳である)。バイサイドでこれは、今考えるとちょっとあまりにコストのかけ過ぎであった(注1)。

また、今考えると、たかがDCFで、それをデータベースにぶちこんでグローバル比較出来るようなインフラを作るのにクオンツが必要だったか疑問だが、クオンツも雇われていた。世界中のアナリストが作ったDCFをグローバルで共有出来るIT回りのインフラを作ったり、DCFのモデルのテンプレート自体を作成するのが仕事だった。また、資本コストの推定の所等でそれなりに理屈の通ったロジックを考える事等も彼らの仕事でもあったように記憶している(注2)。

更には、グローバルでDCFを作成して横比較するとなると、投資する各国のターミナルグロースについてもきちんとした推定を持たないといけない。ここはエコノミストがやっていた。ターミナルグロースの推定を、概ね各国の潜在GDP成長率の推定と言う問いに置き換えて、マクロ経済の状況なんかからここの予測を行っていた。主に欧米の一流大学の経済学部で修士や博士を取ったような人々が、こう言う議論を延々していた。

しかし、上記のような学歴も知識水準も人件費も高い人々が日夜大量の時間や手間を割いて出て来るアウトプットが、前回書いたような「DCFは説明のツールとしては良いがリターンを打ち抜くツールとしてはファジーなもの」でしかなかったのである。

説明力と言うか顧客に対する説得力はあった。上記のようなゴージャスラインナップで、グローバルに統一されたフレームワークで、アナリスト、クオンツ、ファンマネ、エコノミスト等がコラボレートして、アルファが出るんです、と言った説明を、これまたMBA出のお偉いなんかが美麗なプレゼンでロジカルに説明すると、そのグローバル運用会社のブランドネームとも相まって、騙された、いや失礼、プレゼンに納得して投資する顧客が次々に出て来たのである。AUMは一時期もの凄く大きい額になっていて、そこから得られるマネジメントフィーは、上記に書いたような教育程度の高いお偉い様がたのお給料や、筆者のようなちんちくりんの研修費用として費やされて行った。

しかし、筆者の居た運用会社のリターンは全体として決して芳しい物にはならなかった。1−2年であれば「たまたまリターンが冴えなかっただけだ、我々のプロセス、陣容は完璧だ」と説明していれば良いが、3年ダメだと顧客からも見放される。チームは瓦解へと向かっていった。そして筆者も、(新卒直ぐで筆者の人件費も大した事はなかったし社内での立ち位置も以前書いた調査部の上の人等に適度に守られていたのでそんなに悪くはなかったが)転職を考えるようになった。崩壊に向かい、ニューヨークから首切りお偉が面談のために東京に訪問するようになり、ストレス等で周囲の病欠等が段々増えるみたいな後ろ向きな雰囲気漂う組織に長々居るのは中々にしんどいものだし、一人、また一人と解雇されたり前向きそうな職場に転職したりするのを見ているのはそれなりにテンションが落ちるものだ。そしてその何年か後に実際にチームは瓦解した。

つまりどう言う事なのかと言うと、この商売をやる上では、理論的にMBAや経済の修士博士課程で正しいとされている事を追求する以前に、「追加的一単位の人件費なり時間なりの資源投入に対して、追加的なリターンがどの程度相場から引き出せるのか」と言う事に敏感でなくてはならない、と言う事である。マニアックにやれば良い訳ではないし、知識があれば良い訳ではないし、精緻にやれば良いと言う訳ではないのである。ビジネスである以上、コストベネフィットを考えながら、「これに時間なり人手を追加的に使う事で、相場から引き出せるリターンがどの程度改善するか」を念頭に置きながら資源投入を行う必要があるのである(注3)。

前回書いた通り、DCFが全くムダな訳ではない。DCFを作成する過程でその業種に詳しくなれる、企業の収益費用の構造も見えて来る、バランスシートやキャッシュの使い道をどうするかが株式価値にどう影響するかについて理解を深める事が出来る。非常にファジーなレンジを取るとは言え、大まかに今の株価水準が多くの投資家にとって高いと思われる水準にあるのか安いと考えられる水準にあるのか等も分かる。こう言った事に対する理解は、ファンダメンタルベースで株式投資をするのであればあって悪くないFeelであり、ある程度までは便益もあるように思う。

しかし、筆者の上記の極端な例でも分かるように、ある一定の線を越えると、かける手間やコストに対してリターンが見合わなくなるのである。

アナリストに極めて精緻なモデルを作らせた所で、前回の通り変数をちょっといじれば結果は大いに変わり得るファジーなものでしかない。

クオンツに資本コストの推定などさせた所で、これは相場付きやグローバルに巡っているマネーやリスクアペタイト(つまり市場参加者の気分、感情)の多少で変動するしニュートン力学のようにバチッと一意に計算出来る類いのものではない。

エコノミストに潜在GDP成長率を膨大な計量経済学のモデルなんぞで計算させた所でだから何なのか。日銀や各国の中央銀行が公に言っている「うちの国の潜在成長率はまあ日本じゃ0.5%とか1%そこら(2-3%そこらin他の先進国、数%中盤〜後半in新興国)じゃないですか」等と言った結果を使う事と比較してどれほどの超過リターンが期待出来るのか。別にエコノミスト自体は個人としては優秀だと思ったし、悪い事をしている訳でなく真面目に職務に取り組んでいたと思うが、その最後のアウトプット先がDCFのターミナルグロースの推定と言うのでは、どれだけの付加価値があるのか筆者の感覚としては疑問であった。

更には、こうやって多数の分野、多数の部署の人間がDCF(あるいはその類似モデル)の作成に関わる事によって、「部署間で連絡したり情報共有したりする事に対するコストが上昇していく(=端的にはテレカン等による会議が頻繁に必要になる等)」「誰の責任で誰の投資判断を反映して作られたものなのか分からなくなる」と言った所があったのも問題であった。アナリストのキャッシュフロー予測やクオンツの資本コスト推定、エコノミストのターミナルグロース推定等が、まるで「個々の酒は非常に高価なんだが全体の味等考えずに無造作にシェーカーに突っ込まれてシェイクされて結果として不味いカクテルになる的な具合」に混ざり合い、微妙に香ばしいドドメ色の結果がグラスに注がれる事になる訳である。

そして、パフォーマンスが悪化すると、アナリスト、クオンツ、エコノミスト、実際にポートを組んでいるポートフォリオマネジャーの間で責任のなすり付けあい合戦が社内で始まり、どこの誰をリストラするかと言った話になり、ニューヨークから東京オフィスにも偉い人が来て面談(要するに誰を切るか決める面談だ)等するようになり、社内は険悪な雰囲気に包まれるのである。でもって、険悪な雰囲気が更に運用に集中出来ない環境を醸成し、パフォーマンスの悪化に繋がるのである(注4)。

そんなこんなで、「作業の投入量に対して、得られるリターンが見合わない」と言った状況になりがちなのである。冒頭のスライドなど見ながら、適度に参考にして頂けると幸いである。

何かアレだな、運用ビジネスの組織論みたいな話になって来たな・・・業界の中に居ると全く新味のない内容だと思われるのだが、まあそこはご容赦頂ければ幸いである。こういうのはアカデミックさのかけらもないが、実務の現場に居るから書ける事と思うので、学生さんや業界外からこの商売に参入されたいかた等、外部のかたに微力でも参考になれば幸いである。


(以下注釈)

(注1)しかしまあ、このグローバル運用会社のコスト配分の間違いのお陰で筆者はこの業界に入る事が出来たので感謝はしている。以前にTwitterで、「国の移民等でドアがいつまでも開いている訳ではない」と言った事を書いたが、こと仕事についても同様である。業界に潜り込んだりするのも、いつもドアが開いている訳ではない。今回のブログで書いたような「グローバルバイサイドのジュニアアナリスト」と言った、キャリアの最初の学習期間として持ってこいのようなポジションが現在も新卒、しかもMBA卒でもなく大学時代にファイナンス等勉強していた訳でもない素人の若者にキャラ採用で開放されているのかと言うと、中々難しいのではないかと思う。アノマリーはいつまでも続く訳ではないし、道端に1万円札はいつまでも落ちている訳ではない。道端に1万円札が落ちていたら、拾えるうちに早く拾うのがいい。

(注2)国家間の資本コストについては、以下の書籍に詳しく書いてある。先進国の株式リスクプレミアムは3%〜5%位だかで過去推移してました云々等。「趣味的な研究です」と言ってしまえばそこまでだが、よく調べたなあと思う。実務に忙殺されているとまずこう言う風に「リターンに余り繋がらない事柄で、データを大量に渉猟して論文を書く」と言う事は出来ないので、有り難いように思う。こういうのは研究者の仕事と思う。

証券市場の真実―101年間の目撃録 [単行本]


(注3)この辺に対するセンスの有無と言うのは、プロフェッショナルとしての水準感を測る上で結構参考になる。この辺に対する理解がないと、枝葉末節に入り込み過ぎていて相場の株価と向き合う気概の感じられないバイサイドアナリスト(セルサイドアナリストは知識量を売りにするのもアリだとは思う)、細かい数学/統計知識の増大に余念がないがこの人は大学のゼミで研究でもしていたいのであって相場からリターンを引き出す事には興味がないんじゃないかと傍から見ると思ってしまうクオンツ等、「実戦で余り機能しない感じの専門家」がぼちぼち生産される事になる訳である。とは言え大手であれば、いつまで続くかは筆者の知る所でも述べる所でもないがこう言った人材を抱えられるのかなあとも思うし、顧客の前で喋らせたりすれば何となく説得力が出たりする側面もある訳で、全く価値がないと言う訳でもないのかなとも思う。

一方で、規模の小さい運用会社で働く者やヘッジファンドで仕事をしていてかつそれなりに機能している人々は、概してこの辺りに対する実務家としての現実的な感覚があるように思う。

そして、筆者が他の所で、ヘッジファンドにシフトするなら遅くなり過ぎない方が良い、と言うのもこの辺りが関係している。大手の運用会社とヘッジファンドでは仕事の仕方や求められる資質が結構異なるし、セルサイドアナリスト等とヘッジファンドでも同様の面があるように思われるのである。

(注4)こう言った経験があるので、筆者は運用商売におけるトヨタ式かんばん方式流れ作業的な縦割り分業には懐疑的であり、ハーレーダビッドソン、ガンダムやエヴァンゲリオンのパイロット等の類いの「セル生産」が良いのではと考えるに至った面はある。プロセスに裁量を与える一方で結果責任も明確にし、運用やリサーチの工程、結果としてのアウトプットであるパフォーマンスの権限責任の所在を個人に帰属させる方式の方が、この商売では馴染むように思うのである。