2011年2月1日火曜日

年寄りの昔話:小室哲哉と外資系金融、アナリスト


雑談である。

ヤフーかなにかのニュースで、小室哲哉名義で22年ぶりにアルバムをとか出ていて、ふと思い出してこれ↑を聴きたくなって、ふと聴いた。うおーいい。

勿論最近の詐欺事件等は決して許されるものではないし、当時も勿論「売れ線ありき」「拝金主義」等等批判も沢山あったが、上記Youtube位の頃の小室哲哉やglobeには、何とも言い難い「華」「勢い」「色気」「艶」があったように思う。

技術云々ではないのだ。
漂うオーラとして勢いがあったのだ。
唸るような金額のお金が動いていた。
唸る程のセールスを上げていた。
曲も詩も華があった。



この曲を聴いていて思いだすのが、10−15年程前の日本の外資系金融機関の状況だ。ここからはとある老兵の独り言だ。興味のないかたは飛ばして欲しい。

小室ミュージックがピークからピークアウトしていく位の頃、全盛期のコムロミュージックと似たような雰囲気が、往時の外資系金融機関、もっと言えば、株のアナリストの世界にはあった。

少しバブルの泡沫的雰囲気もありつつ、演奏や歌の技術力と言う意味では結構適当な面もあったにせよ、個性のある面白い人達が沢山居て、唸るような額を稼いでいた。

元々は都銀に入れなかった落ちこぼれの集まる証券会社の、更に大してエリートではなかった閑職「アナリスト」に配属されて、オフィスの片隅で大量の統計資料等にまみれてちまちまやっていたオタク的な「傍流の人達」が、ある日日本の銀行の凋落、直接金融シフト、株主重視等の時代によって、スターに押し上げられる事になった。

気づいたらそうなってた、と言う感じだったそうだ。英語の勉強とか、株式分析の勉強は勿論地道にやって、統計資料にまみれて地道にオタク度を高めて行った面ももちろんあるけれども、それにしても気づいたら、周囲に株の調査が上手く出来て英語が話せる人が居なくって、年俸は絵画のオークションに付く値段のように跳ね上がっていった、らしい。

当時の甘いファイアウォール・コンプライアンスの中で投資銀行のディールに関与して稼いでいたセルサイドアナリストはもとより、バイサイドでも、「セルサイドでも通用する」と目されていた者で、バイリンガルで外資で通用する者であれば年俸が「億」レベルのアナリストが日本にもいた。オタクの貰う給与としては破格だった。何某の師匠が、そう言う人だった。

学歴も目立ったものはない、資格もない、会社員なんて嫌だなあと思いながら証券会社系のシンクタンクの隅っこで80年代のバブル入る前位に社会人デビューをし、当初は会社員なんて面倒臭くて、しょっちゅう会社をサボって公園で散歩していたような「アウトロー」の海賊が、90年代には外資系金融に移籍して、唸るような額を稼いでいた。そう言うカッコ良さが、当時のアナリストコミュニティにはあった。

彼らの新卒の採用方針もまた、今では考えられないようなものであった。

新卒の面接で、

「真剣に付き合っていた彼女と別れたんです。で、シュウカツとか会社員とかもう何もかんもどうでもよくってやる気起きなかったから、大学を休学してニューヨークで夜な夜なClubで遊んだんです。Clubシーンの情報格差があってニューヨークの情報を東京に持って行くだけで貴重がられたりするのを感じたりしたんです、キンユウのアービトラージってまあそう言う事でいいんですよね。で、恋の終わりからも立ち直って、英語も多少喋れるようになって、生命力が付いたような気がするんす。こう言う経験があるのが、僕の強みですかね。」

などとタメ口で宣い、マッキンゼー出身の外人アナリストの英語ケーススタディでしどろもどろで英語が余りにヘタだったので手許のノートに絵を書いてなんとか切り抜けたような某バカ学生が、「俺の若い頃みたいだ」として「Speculative Buy」のレーティングを付与された上で、当時1万人のアナリスト志望者からの数名の採用枠において、その一人として採用された。

なんでも、「君は変わったオタクみたいですね?」の問いに、「ハイ、それが強みです」と答えて、当時立ち上がっていた音楽配信ビジネスのコスト構造を細かく指摘して、当時試みられていたビジネスモデルでは事業は成立しないでしょう、当面難しいでしょうと大変に上から目線で答えたのが、「良かった」そうだ(実際、音楽配信ビジネスが本格的に立ち上がったのは、これからだいぶ後、ブロードバンドインターネットが普及してiTunesにiPodが出た後である)。

90年代に大流行した、「エヴァンゲリオン」の謎解きにハマっていた事も「高評価」された。アナリスト候補生たる者、例えばリツコさんのタバコの灰が「ぽたっ」と灰皿に落ちたひと刹那のシーンで、「ああ、ゲンドウとリツコさんは不倫してるな」等と感じ取れた方がいいのだ。

こう言う所で、世間体を取り繕う事に意識を取られて、「私は変なオタクなんかじゃありません、社会人として立派に云々・・・」とかつまらない事を言ってしまったり、ネクラだと思われる事を恐れて「エヴァンゲリオンは社会現象のようですが、私は知りません」等と言ってしまっていたら、今の何某はなかったのだろう。つまり常に自分らしくあれ、それが道を拓く近道だ、と言う事なのだろう。

そして内定後は、マネージングディレクターとかグローバルエクイティリサーチ何とか統括部長と言った肩書きの「お師匠」相手に、殆どタメ口で、最近読んだ金融や株の本の話、バカな若者の無茶苦茶な女性関係等の話についての議論を職場で平気でする事を、当時ちんちくりんだった某学生は許されていた。民エレや通信の一流アナリストたる者、当時必須アイテムになりつつあったネットや携帯電話等を使いこなす若者のカルチャーには、謙虚に耳を傾けてみようじゃないかと言う事だったのだ。当時を振り返るに、「タメ口で最初は当時はちょっとむっとしたし、この子大丈夫かなあと思ったが、若者はいつでもこう言うものかなあと思ったし、入社後は真面目に働いたので見直す事にした」との事だったらしい。

そして、採用新卒のちんちくりんの学生だった何某のやった、ちょっとした調査や財務モデルの作成の「ご褒美」として、オーパスワンやシャトーマルゴー等の、何某には価値はよく分からないが結構昔の年代のワインが惜しげもなく開けられていって、お祝いしてくれた。

シャトーマルゴーを開けながら、こうしたシニアから繰り出される多少のウィットや下世話な話も伴う株やファイナンスの話、ジャズ等の音楽やアートの話は、当時聴いていて付いて行くのがやっとだったが、「ワルな感じででも品があって知的」で面白かった。

外資系金融の東京オフィスも当時は政治力もあり余裕もあったので、政治的に守られた立場でニューヨークの研修等に出して貰えた。プール付きで家族が住めるような部屋がちんちくりんの学生上がりにあてがわれ、ニューヨーク大学等のFinanceやAccountingの教授の講座を受けて、週末はマンハッタンのClubで遊ぶような生活が与えられた。

NYのグローバルヘッドとの会食で美味しいメシや酒が出たあまりに飲み過ぎて、記憶が飛んでしまい、当時F**kingは「超」と言う副詞としても使えると言う事を学んで良い気になってしまったのか、F**kin+形容詞!等の言葉を連発しても、なぜか不問だった。どこかから手回しがあったのかも知れないし、グローバルヘッドの奥さんが日本人で日本人に理解があったからかも知れないし、この奥さんとした、題名は忘れたがむっちゃ内気で内面をえぐるような小説の話などで気が合ったせいかも知れないし、理由はなんだか分からないが、欧米のお偉いとの飲み会はビジネスであり、飲み過ぎでべろんべろん等と言うのは言い訳として許されない事を考えると、今考えると幸運の待遇だった。

帰国後も、外資系にしては珍しく、アナリストとしてのスキルのイロハ等をちゃんと教えて貰えた。

「よし株式調査部長MDより休暇を許可する」、の一言で休暇が与えられ、当時のMDとホノルルマラソンに一緒に行った。ハワイで旅行中に彼氏と別れて単独行動しているらしいハタチ位の日本人の女の子に声を掛けられたので、その夜のMDとのディナーに彼女を飛び入りで連れて行っても、おお面白いねえの一言で歓迎された。今考えると、とてもじゃないが部下としての振る舞いではなかった。本当にただのレジャーで行っていた。同行していたセルサイドのセールスの年上の女性が持参し忘れた着替えの下着を、パシリとしてシャワールームに届けに行ったりして、泡の湯船で見えそうだけど見えない状態でありがとうと言うその同業者の先輩に、微妙にドキドキしたりする感じを楽しんでいた。「お師匠」のコミュニティでは、セルサイドだからとかバイサイドだからとか言うものはなかったのだ。空き時間にはハレクラニでフィッシャーの成長株の本を読んだ。単純に楽しかった。



・・・時を経て2011年、そう言った数知れない思い出をくれた何某の往時の「お師匠」は、この業界を駆け抜けるように駆け抜けられて、そして帰らぬ人となった。

アナリスト華の時代だった90年代が終わり、2000年代に入って、急速に逆風が吹きはじめる中で試行錯誤を続けられていて、過労とストレスが祟ったのかも知れない。

何某は、この知らせを聞いた時、何も出る言葉がなかった。
シニアとは言え、年齢もまだ壮年位で老年からは程遠かったし、心の準備が全く出来ていなかった。この知らせを聞いた時、取り敢えずシンガポールから日帰りで東京に飛んだ。

とにかく、手を合わせて「ありがとうございました」と心の中で祈る事しか出来なかった。



そして、ふとある想いが胸を去来した。



ああ、一つの時代が終わったのだ。

この現実を、受け入れないと、いけないんだよなあ。

ありがとうございました。

ありがとうございました。


・・・90年代の全盛期のコムロミュージックと共に語る、とある中年の昔話、独り言であった。

2 件のコメント:

  1. とても魅力的な記事でした。
    また遊びにきます。
    ありがとうございます。

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  2. ありがとうございます。

    そう言えば、文中の「ニューヨークのグローバルヘッドの奥さんと意気投合した本」は、以下です。今ふと思い出しました。FYIまで

    「二十歳の原点」(高野悦子著)

    ・・・・・・うーん、ビジネスの場で、しかも外資系金融の(元来売り込みの場である)グローバルヘッドや奥様と話しなぞする際の著書としては、あまりに不似合いだな何某よ、もうちょっと考えようぜ・・・・・・ほんと学生の延長だったな。しかし昔の外資系金融は、本当に懐が深かったんだなあ、セイシュンですなあ、うんうん(おじさんまた遠い目)、等と思う筆者でありました。

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