2017年7月24日月曜日

○村上春樹の長編小説「騎士団長殺し」を第2部まで読み終えた徒然なる感想文。

村上春樹の「騎士団長殺し」を1-2部通じて読み終えたので、今日はその感想を徒然に書いてみた。

例によって物凄く長い超長文であり、 要約すれば「村上春樹ファンやアラフォー中年等なら普通に楽しめると思う」「一方で、村上春樹作品に付きものの踏み込み不足感もやっぱりある」「第3部が出てくる可能性は応分にあるが、出て来ない可能性もある」と言ったたったそれだけの感想をスーパー長文で述べているだけである。以下はご興味のあるかたのみ適度にご笑読頂ければ幸いである。


○村上春樹ファンやアラフォー中年等なら普通に楽しめると思う。

普通に中々面白かった。ミステリー的な、或いはRPGのような展開は飽きさせないし自然で、介護施設(死の場所)から地下のメタファーの異界を進み苦難の末に家の裏側の穴(誕生の場所・子宮のメタファー)に落ちる流れ(これは赤ちゃんが誕生する過程のメタファーであり、ユングで言う所の死と再生のメタファーと思われる)等も非常に流麗な描写であり、村上春樹の作家としてのスキルの高さを感じさせた。日常描写も文章だけから五感が瑞々しく表現されており、やはりプロの作家と言うのは凄いものがあるなと感心せずにはおれないものがあった。

作中の免色さんは村上春樹が好みまた翻訳も手掛けたグレートギャッツビーの明らかなオマージュであるし、作品の設定については意図してなのか手抜きなのかは別として村上春樹の過去の作品への自己引用・繰り返しも見られるように思われる。語尾の「たぶん」なども含めた村上春樹節は全編に炸裂している。これをもって退屈だ、過去作品の焼き直しだと言った評もあるとは思うが、村上春樹が好きだと言う読者であれば楽しんで読める作品のひとつなのではなかろうかと思う。

或いはアラフォーの自身としては、アラフォーを迎えた主人公の成長物語として読む事も出来た。生活のためだけに凡庸な肖像画ばかり描いているうちに擦り切れてゆき、中年を迎えて知らぬ間に妻との距離も離れてしまった男が、遂にそれを維持し切れなくなり中年の危機入りする。それを非日常的な特殊な体験・冒険を通じてゆくうちに成長し、中年の危機を乗り越えんとすると言う物語である。

仕事面・画家としての中年の危機については、生活のためだけの凡庸な肖像画を描く事をいったんやめて、物語を通じて肖像画家としての経験を下敷きにして踏まえながらも若い頃志向していた抽象画的な面と融合して自分なりの画風を確立しつつある所にまで到達する事で、主人公が一定の成長をする物語である。物語のスタートでは顔なし男の肖像画を描きようがなかったのが、2部のクライマックスでは紙とペンさえあれば顔がなくても肖像画を書けそうな段階にまで到達しているように見られる点など象徴的である。それはつまり、主人公が顔の造形と言う表面を越えた所にある対象物の本質に接近できるように画家として成長しつつある事の象徴のようにも思われた。

結婚生活の危機については、妻と距離を置き、傷心旅行等に出たりもし、大変に村上春樹の作品的な形で妻以外の女性と幕間的な不倫関係を短期にこなして心の傷を癒しながらもそこの関係には依存し過ぎずに一時的なものとして終了させ、妻との関係性を見直して関係を復帰させ、最後には子供と言う宝を持ち帰る、と言った成長物語であると読めた。アラフォー中年には中々に臨場感のある内容であった。


○一方で、村上春樹作品に付きものの踏み込み不足感もやっぱりある。

一方で、不完全燃焼に終わった面も感じられた。村上春樹作品特有のある種の踏み込み不足とでも言おうか。

例えば、2部の終わりの時点での主人公の画家としての成長度合いは、中途半端なものであるようにも見受けられた。

真の成長物語であるなら、日常に復帰した後にまた生活のためだけに凡庸な肖像画を描いていてはダメである。せっかく確立しかけた自分なりの画風を実際に世に問い、それを社会に認めさせ、自分の個性・画風で飯を食える所まで持って行ってこその中年クライシスの真の卒業、幹のしっかりとした中年期以降の豊かな再成長軌道を確立する事になる。

しかし、第2部終盤のエンディングではそれは後回しにされており、主人公はまたもとの「飯を食うための凡庸な肖像画を量産する生活」に戻ってしまっている。大部2冊、1000ページ分の大冒険を、死と再生のメタファーなどまでクライマックスでは展開しておきながらこの按配である。

これでは何と言うか成長度合いとしては余りにささやか過ぎるようにも思われる。1000ページ分の大冒険をしておいて、読者にも長時間大部の読書をさせておいて、たったそれだけですか?と思わずツッコミを入れたくなるような中途半端感がある。

また、主人公の心に潜む狂暴性やうしろ暗い部分、主人公の心の闇の部分の象徴であると思われる「白いスバル・フォレスターの男」と正面から取り組み、それを絵画として白日の下に引きずり出し、作品として完成させる、と言う過程を2部の終わり時点で主人公は行っていない。

つまり自身の心の闇と向き合い克服し成長する、と言うプロセスについても中途半端なままで終わってしまっているように見受けられるのである。

白いスバル・フォレスターの男=自分自身の心の闇を、結局は未完成のまま屋根裏部屋の見えない所に押し込んで、火事で焼けてしまってああやれやれ、と言った具合で終わってしまっているようにも見える。2部の終わり時点で、家が火事で焼け落ちてしまった事に対して、表面的には偽善者的に残念そうな素振りをしつつも、白いスバル・フォレスターの男 =自身の心の闇と格闘しないで済み、屋根裏部屋に臭いものにふたをふるように押し込んでいるうちに、いい具合に火事で焼けてうやむやになってくれて、主人公は内心安堵しているようにも見えるのである。

更に言えば秋川まりえの肖像も、未完成で踏み込まずに留める事でひと時のかりそめの平和・安寧を得ているようにも見受けられる。

秋川まりえの肖像に、自然と子供の頃に失われた妹のコミの事や、別れを突きつけてきた妻のユズの事も主人公が投影している旨は作中で何度か示唆されている。つまりこの絵を完成させた暁には、主人公が妹のコミへの憧憬を妻や13歳のまりえとごっちゃにして投影している事、そうした主人公の近親相姦・シスコン的或いはロリコン的な心の問題(おっぱいのサイズに対する好み他の描写の端々で妹のコミを嫁のユズに投影している事を示唆しており、しかも嫁を夢の中でレイプしている訳だから、よく考えると主人公は間接的に妹のコミを潜在的にレイプしていると言った論法が成立してしまい、主人公って結構な変態ではなかろうかと読みながら感じたものだ)、あるいはそこまで言わなくとも妹のコミの喪失から本質的には36歳になっても主人公が立ち直れていない事、女性に妹のコミを投影してしまっており対象女性そのものとの関係が築けずに居る事が明らかになったはずなのである。

主人公が「子供時代の妹の喪失と言うトラウマから立ち直れていない、子供時代の妹を嫁のユズに投影している面があり、ユズ自身ときちんと向き合い関係性を構築できていない」 と言う問題を抱えている事が、まりえの肖像を完成させる事で明らかになったはずであったのだ。

ユズが結婚生活にNoを突きつけた背景にもなっていたはずの主人公のこうした心の問題を、まりえの肖像を完成させる過程で主人公自身が認識し、癒して行き、妻のユズ自身ときちんと向き合う、と言った過程があってこその真の成長、結婚生活の危機の真の乗りこえが物語の中でなされたはずであったのに、白いスバルフォレスターの男同様に、最後までは踏み込まずに未完成なままで終わらせてしまっておしまいと言う中途半端な形で終えてしまっている。

結婚生活の問題も、ユズがイケメン好きでイケメンを前にすると理性が狂ってしまう、位のちょっと火遊び位のノリで軽く処理され棚上げされたまま、主人公の心の問題は結局最後まで正面から取り組まれる事はなく、曖昧に嫁さんとはヨリを戻し、子供も出来たし子育てもあるし、と中途半端な形で終わりになっているようにも見える。これも、1000ページも読者に文章読ませておいて進捗・成長はたったこれだけですか?とツッコミを入れたくなるような不完全燃焼感をこの作品に与えているように思われるのである。

つまり、2部の終わり方では、仕事にせよ男女関係面にせよ全般的に、主人公の成長物語としては中途半端なのである。主人公は1000ページ分も散々冒険し、また読者に1000ページ分も読書に時間と労力を割かせた挙句、主人公の心の闇・子供の頃から抱えた本質的な内面の問題も解決せず棚上げで、キャリア上の行き詰まりも本質的には解決しきらず進化の「きざし・萌芽」程度で、中年クライシスの解決も根本的には図らず、何となく嫁とヨリを戻して子宝に恵まれ子育てに励む事でかりそめの平和・日常を取り戻して良かったね、と言う、言ってみれば矮小的なかりそめの平和に回帰する程度の所に留まってしまっているのである。この、「えー、1000ページも読ませてこれで終わりですか?」と言う感覚というのは、恐らく本作品への主要な批判ポイントの一つとして読者から複数類似の感想が出て来ておかしくないように思われた。

このままでは、子供が大きくなり子育ても一服した辺りでまたぞろ夫婦関係にせよ仕事にせよ問題が噴出して、アラ45かアラフィフ辺りで中年・壮年の危機が再度形を変えてやって来る事は容易に想像されてしまう。大著2部の長編、1000ページ分も主人公は冒険をし、また読者にも冒険に付き合わせ、2部のクライマックスでは死と再生のメタファーを経験したが、2部の終わり時点の主人公はまだ成熟した大人とは言えず、「再生・再誕生したばかりの大きな赤ちゃん、再成長への萌芽」位のものでしかない。

主人公が本当の意味で自分自身と向き合い成長・成熟しきるには第3部のさらなる試練、あと500ページ位のもうひと冒険を必要としているように思われる。


○第3部が出てくる可能性は応分にあるが、出て来ない可能性もある。

上記のような中途半端感、不完全燃焼感を村上春樹が意図して第3部への伏線として準備しているのであれば、そして第3部で主人公の真の成長・成熟の骨太の物語を描ききれるのであれば、それは巧みな伏線・背景作りであると言えるであろう。また、2部終了時点では傑作とは言えなくとも、3部までの完成を以って村上春樹のアラ70歳のキャリア集大成的な作品に昇華される可能性は(まだ第3部が出るとも出ないとも判明していない)今のところは秘めているように思われる。

しかし第3部はリリースされない可能性もあるし、3部目がリリースされて更に500ページ位の大冒険をもう一回やっても、結局の所主人公が自らの心の闇とがっぷり四つに取り組み、試練の末に真の成長・成熟を勝ち得ると言った大団円は迎えないかも知れない。また、いわゆる村上春樹ファン、ハルキスト達がそれを求めているのかと言うと微妙かも知れないなとも思う。

村上春樹の持ち味は、あくまで「フワッとした曖昧さ」「現実とがっぷり四つに取り組む感覚の希薄さ」にもあるように思われるのである。つまりは現代的・現実的な時事問題、各自の人生の問題、金銭・経済問題、心の闇、と言った難しくも現実的で切実な問題とがっぷり四つに取り組む事は避けながら、フワフワっと古典的なジャズやクラシックや70-80年代のレコードを聴き、フワフワっと何故かカネには困らず、フワフワっと美人とセックスして、フワフワっと閉じた世界で知性教養があるような気分に浸れる、みたいな所に村上春樹作品の魅力はあるのかも知れないな、等ともふと思うのである。自分にしても、特に学生などの頃は、村上春樹作品のそうした側面をカッコいい、面白いと思っていた節があるし、今でもその残滓のようなものは自分の心の中に幾らかはあるようにも思う。そうであるから、久々に長編が出れば興味深く読みもする。

或いはある種の現実逃避的な懐古主義とでも言う彼の作風が、村上春樹ファンにとっては魅力なのかも知れない。

2017年の現代にあって、SNSやインターネット等の現代的なコミュニケーションやそこから生じる現代的な男女の機微などは、村上春樹作品では一切描写される事がない。

現実の現代の男女は、既読の付くタイミングだとか既読スルー、レスを返すタイミングと分量での駆け引き、と言ったSNSのこまごまとした事で一喜一憂しているし、それが男女関係・人間関係の機微において重要な要素になって来てもいる。

それなのに一方で、村上春樹の小説の世界ではいまだに、20世紀の小説の定番表現である固定電話中心の懐古趣味的なコミュニケーションがポイントとなって物語は展開される。

今の若い人に、固定電話の鳴り響くベルに緊迫した雰囲気を感じただの云々と言った描写が果たして理解可能なのだろうか。ちょっと微妙なのではないかと思う。既にいいおっさんのアラフォーの自分にしても、そもそも大人になって以降一度も固定電話など自宅に引いていないし、特にメッセンジャーやSNSが普及して以降はスマホで音声通話など殆どしない。若い世代になればなるほどそうした傾向が一般的なのではないだろうか。

そうした事情もあるので、村上春樹の作品を読んでいると、1980年代、ノルウェイの森が流行った頃位にタイムスリップしたような気分、地方の寂れた温泉街のゲームセンターで、子供の頃に流行った古いアーケードゲーム(インベーダーゲームとか、VRで現実と見まがう程リアルな最近のではなく今よりもずっとプリミティブな昔の車のレースゲームとか)を久しぶりにやっているような気分になる。

騎士団長殺しの販売動向が過去作品より芳しくないと言った話も聞かれるが、背景にはこうした事情、20世紀的ノルタルジーにもう付いていけない、又はもうぼちぼち卒業かな、或いはそもそも平成生まれで昭和以前のノスタルジー自体をそもそも理解が出来ない、と言った世代が徐々に増えていると言った事情があるのではないかとも思われる(年齢別の売上内訳など見てみたいものである)。

自分個人の感想を言えば、自分の場合はこう言うノスタルジーに浸るのは、それこそ時々地方の温泉に行く頻度位なら良いとは思うし、また上述の通りで学生時代など若い頃は心地よく面白くかつカッコいいと思っていた面はあったものの、いつまでもずっとそのノスタルジーに今現在どっぷり浸りきれるかと言うと、必ずしもそうでもない、と言う感じだろうか。

それこそ作中で記載されたとおり、物語の輪は一回開いたら大団円でしっかりと成長物語として描ききって閉じてくれるべきであると言う発想を現在の自分は持つ傾向もあり、ディズニーやピクサー等のアニメ映画、ハリウッド映画の感動モノ的な作品とも通じるような比較的分かり易い「ど真ん中の骨太の成長物語」を好んでいる。若い頃よりも良くも悪くも発想が現実的にもなったとも思う。ご飯は食べていく必要があるし、何となくノスタルジーに浸り続けている訳にも行かないしなと。

しかし村上春樹ファン、ハルキストの皆が自分のようであるとは限らない。むしろ、数十年変わらない、ノルウェイの森の頃辺りからずっと変わらない村上春樹ワールドにどっぷり浸かって、出来る限り長時間のあいだ非日常体験をしていたい、それが村上春樹の利用法であり消費の仕方だ、と言った読者層も応分にいるのかも知れない。

仮にそれが事実であり、また村上春樹自身がこうした読者層へのイリュージョンをぶち壊さずに夢を見させておいてあげ続けたい、と言う事であれば、白いスバルフォレスターの男や秋川まりえの肖像と言った作品と同様に、未完成感のあるまま2部で完結するのもまた無難なのかも知れないし、3部を出すにしてもやっぱり半端な形で終わりにして、 現代的・現実的な時事問題、各自の人生の問題、金銭・経済問題、心の闇、と言った面倒かつ本質的な問題にはあまり踏み込み過ぎないようにするのかも知れない。


随分と長くなったが、騎士団長殺しの1-2部を読んだ後の感想を最後に再び要約すれば、「村上春樹ファンやアラフォー中年等なら普通に楽しめると思う」「一方で、村上春樹作品に付きものの踏み込み不足感もやっぱりある」「第3部が出てくる可能性は応分にあるが、出て来ない可能性もある」と言った所であろうか。そうした要素に一定の時間やお金を投入して差し支えないと言うのであればお勧めである。